日中共同防共戦略vs東アジア赤化戦略
大歴史(文明史)から見た日中関係は、衝突の必然性はそれほど高くなかった。たしかに白村江の役や元寇、倭寇、豊臣秀吉の征明があり、開国維新後には朝鮮半島を巡る対立と、その結果としての日清戦争はあったものの、千数百年の間でわずかこれくらいだ。
その日清戦争でさえ、それが終わったら、中国では日本の近代化に学ぶ戊戌維新や、同じく日露戦争後の改革開放運動なども行われている。開国維新後の日本では、「アジアの悪友どもとの交遊謝絶」との脱亜論があった一方で、アジアの覚醒と連帯を目指す大アジア主義もあり、中国もそれに共鳴、呼応していたわけだ。
このような日中蜜月の時代を経て、両国関係に齟齬が生じ始めたのは、袁世凱時代の所謂「二十一ヵ条要求」(1915年)や段祺瑞時代の「五・四運動」(1919年)以降になってからだ。そして対立はだんだんと拡大し、満州事変、支那事変へと突入して行った。
しかし「二十一ヵ条要求」以降の日中間の齟齬の原因は、日本と言うより中国の国内問題にあった。そもそも中国は政治が不安定な国である。この中華民国時代は、かの五代十国時代以上に混乱していた。政府はいくつも存在し、一つとして対外的に一国を代表できるものはないばかりか、抗争は絶えることはなく、ほとんど国家の体をなしていなかった。
そのような騒乱のカオス状態のなかにソ連の勢力が入り込み、コミンテルンやスターリンの操りで排日、抗日運動が激化し、日本を翻弄したのだった。
もともと開国維新以前から、日本にとっての最大の脅威の一つは、東アジアへ南下しようとするロシアだった。だから維新後の大日本帝国の歴史は恐露から出発し、日露戦争で一度はクライマックスを迎えた。その後ロシア革命が起こり、再びロシア(ソ連)は南下の勢いを見せた。これが東アジア赤化の脅威である。かくして日本では軍事とイデオロギーが一体となった脅威論が醸成され、「防共」と言うソ連との軍事的対立が国防上の至上の課題となった。
日露戦争以降の日本の国家戦略は、主に対ソ戦を想定しており、陸軍は主力を関東軍に投入してソ連軍の侵攻に備えた。そして日独防共協定、日独伊三国同盟も締結したものの、そのために米英との対立が深まり、日本は突如、北守から南進へと戦略転換し、支那事変から大東亜戦争へと戦火は拡大した。アメリカが対日戦争を決意した背景には、スターリン指導のコミンテルンによる策謀があった。また日本の側でも共産主義者の開戦誘導の謀略があったことは、三田村武氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』に詳しい。
さてその間、日本が立てた目標は中国との「共同防共」だった。満州事変、支那事変が始まっても、日本によるこの日中連帯の呼びかけは続けられた。つまり「共同防共」の実現が日本の最も望むところであって、ソ連の脅威を前に、中国などと戦っている余裕などなかったと言うのが実情だった。
つまり「日中戦争」なるものの実態は、日本が中国の挑発に振り回され続けていたと言うものだ。だからこそ日本の政府も軍部もあれほど、いかに戦争を回避するか、いかに戦争を終結させるか(和平を結ぶか)で悩み続けていたのである。
もちろん日本だけでなく、それと近いような悩みは蒋介石も汪兆銘も抱いていた。ことに汪兆銘は日中全面戦争の最中、最も憂慮したのは戦争に乗じて共産党が勢力を拡大することだった。だから彼は重慶政府と袂を分かち、南京政府を樹立して日本と和平を結び、「共同防共」に乗り出したのだった。実際汪兆銘の憂慮は的中し、蒋介石は日本には勝利したものの、それですっかり戦力を消耗し、他方「全力の七分を党の発展に、二分を国民党との対抗に、一部を抗日に」との毛沢東戦略でやってきた共産党は、それとは逆に勢力を広げたのだった。もちろんこの共産党とは、東アジア赤化のためのソ連の傀儡である。
コミンテルンの陰謀に対処できなかった日本
中国人は偽書「田中上奏文」を日本の中国侵略の証拠とし、日本の「野心」「陰謀」だけに日中戦争の原因を求めようとする。こうした日本侵略史観は日本でも横行したが、いまでは教科書に名残をとどめている以外には、ほとんど退潮しているようだ。
支那事変にまで至る民国以降の日中間の齟齬の背景に、日中を離間させようとした米英の国家戦略、世界戦略があり、日本がそれに乗せられたとする説は、とくに保守派学者の間でよく見られるが、日中戦争の原因については、少なくとも次の三つを挙げなければ何も語れないだろう。
時間的順序に従って言えば、(1)民国の内戦、(2)コミンテルンの陰謀、(3)日本の対応の不得手だ。
(1)については、辛亥革命(1911から12年)で中華民国が樹立されて清帝国は崩壊したものの、孫文の南京臨時政府も、それに次ぐ袁世凱の北京政府も国家統治に失敗し、そのため南北対立、各省、各地の対立が深まって多政府状態となり、中国史上空前のカオス状態に陥った。それらの対立は北京政権を巡る北洋軍閥の内戦、南方の広州政権を巡る革命派、軍閥の内戦、湖南・湖北間での連省自治派と統一派との内戦、広西・広東間での内戦、北方軍閥と南方革命派との間の北伐と南征、さらには国民党内での軍の実力者同士の抗争、戦争があり、そして西安事件まで続いた熾烈きわまりない第一次国共内戦もあった。
各派武装集団の抗争は、省レベル、県レベル、村レベルにまで及び、たとえば辛亥革命以降の約20年間で、四川の一省だけで軍閥内戦は五百回も発生した。そのほか匪賊が跋扈し、その数は2000万人にも達していたと推定されている。国民党の内部諸勢力間の内戦である中原大戦では、百五十万人もの兵力が動員され、30万人もの死者を出している。
たしかに蒋介石は1928年、北京政府を打倒して北伐を完了し、国家権力を掌握しつつあったが、なお蒋介石系以外の各武装勢力に号令するまでの力はなかった。
このような中華民国内の混乱こそ、日中戦争を醸成した温床と言うことができるだろう。
(2)のコミンテルンの工作については、戦後の日本ではあまり語られていない部分だが、1921年のコミンテルン指導下における中国共産党の創立から、国共合作、国共内戦、そしてコミンテルンの解散に至るまで、中国の排日、侮日の運動、事件の背後には、コミンテルン=スターリンの謀略が見え隠れしていた。もちろんコミンテルンは中国だけに限らず、日本、アメリカ等各国の政界で暗躍をしていた。