数字は証言する データで見る太平洋戦争
アジアは一つだったのか?(第7回)
帝国崩壊 死者は2000万人を超えた
每日新聞
日本は2015年8月15日、ポツダム宣言受諾による70回目の終戦記念日を迎えた。盧溝橋での中国軍との衝突に始まった戦火は最終的にアジア太平洋地域を席巻。「大東亜共栄圏」の野望の下で、アジア全域では2000万人を超える軍民が犠牲となっている。欧米植民地主義からの解放戦争と喧伝(けんでん)した大日本帝国は実際、アジアの同胞たちに何を強いたのか。データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】
大東亜会議は「理想」を宣言・・・
死と破壊がもたらされたアジア全域
国・地域別犠牲者数
「真に共存の大原則の上に正義、平等、互恵に基づいて、私たちは新しい世界を創造しているのであります。……アジア人はきっとアジアを取り戻すでありましょう」(ビルマ=現ミャンマー=国家主席、バー・モウ)
1943年11月の帝都・東京で、汎アジア主義が沸騰した。国会議事堂を会場に初開催された「大東亜会議」。首相の東条英機を議長とし、アジア各国の代表は中国・南京国民政府主席の汪兆銘、タイ王族のワンワイ・タヤコン、満州国国務総理の張景恵、独立したフィリピン大統領のホセ・ラウレル、同じくビルマ国家主席のバー・モウが、オブザーバーとしては自由インド臨時政府主席のチャンドラ・ボースが一堂に集う。
ピュリツァー賞受賞作「大日本帝国の興亡」で、作家のジョン・トーランドは記す。
「東京に来た代表たちは傀儡(かいらい)であったかもしれない。しかし奴隷状態に生まれた彼らは、今や自由になったと感じ、初めて、共同で、アジアのための偉大な新世界を宣言したのである」
彼らの理想はしかし、利用され、裏切られ、アジアには死と破壊がもたらされた。戦後のサンフランシスコ講和会議(1951年9月)で、自国の死者数をインドネシアは400万人、フィリピンは100万人と公表した。
他の国では、ベトナム(旧仏領インドシナ)が200万人、インドは戦場にならなかったにもかかわらず、飢餓による死者が150万人に達した。主要国土が戦場と化した中国は1000万人以上とされる。日本なども含めるとアジア全域では2000万人以上が犠牲となった。
大日本帝国のための傀儡政権
アジアに拡大する大東亜共栄圏
陸軍参謀本部第1部は既に太平洋戦争開戦前の1941年2月ごろ、東南アジア地域での軍政実施に関する研究に着手。同年11月20日の大本営政府連絡会議で「南方占領地行政実施要領」を策定していた。
- 軍政により、治安の恢復(かいふく)、重要国防資源の急速獲得、作戦軍の自活確保に資す
- 民政に及ばさざるを得ざる重圧は之(これ)を忍ばしめる
- 其(そ)の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす
「これが、『東亜の解放』『英米の支配からの解放』をスローガンに、『大東亜共栄圏』の実現を叫んだ日本の本心だった」(小林英夫・早大名誉教授「日本軍政下のアジア」)
開戦当初の戦勝により、最盛期の大東亜共栄圏は約750万平方キロメートル=全世界の陸地面積の約6%=、支配する人口は約4億5000万人=全世界の人口の約20%=に達した。
「真の友情」東条首相が語った慈愛
「もちろん、わが民族の優秀なることは、われわれの実感とするところであります。しかしながら」「他に対して、これを見下すが如(ごと)き言動ありとするならば、これすなわち、将来に禍根を残すものであります」「われに及ばざると雖(いえど)も、その応対には、真の友情と理解の心がなくてはならぬのであります」
自らが主宰した大東亜会議で、東条首相の汎アジア精神は高まり、慈愛あふれる父親のように振る舞ったという。しかし、大日本帝国のための大東亜共栄圏に変わりはなかった。
占領地を覆った破滅的なインフレ
国防資源の調達や軍の自活確保で軍票乱発
通貨流通量
大東亜共栄圏という占領下で、アジアの民衆は生活基盤を破壊する破滅的なインフレーションにもさらされた。「南方占領地行政実施要領」で掲げた重要国防資源の調達や現地軍の自活確保のため、日本が軍用手票(軍票)を乱発したことが、主要な原因だった。
日本は中国大陸では既に「通貨戦争」を展開していた。植民地の朝鮮と台湾に続き、傀儡政権の満州国と華北、華中に、中央銀行を設立。華中では1943年4月に軍票発行を停止し、代わりに中央儲備(ちょび)銀行券を使用することになる。
中国国民党政府(蒋介石主席)の通貨「法幣」の流通を妨げ、経済的に打撃を与えることが目的だった。加えて、現地軍の戦費を効率的に調達する目的があった。そのため、日本側の横浜正金銀行上海支店(日本銀行の上海代理店)と華中の中央儲備銀行が互いに預金口座を開設した。
日本政府(臨時軍事費特別会計=日銀券) → 横浜正金銀(中央儲備銀口座) → 中央儲備銀(横浜正金銀口座=儲備券) → 中国派遣軍
との流れで、軍費は現地軍に渡る。儲備券は無条件に引き出された。戦争の長期化と戦線拡大と共に儲備券の流通量は増加し、通貨としての信用と価値は当然下落する。
アジアの民衆に残された「紙くず」
主要都市インフレ率
※1945年の台北、京城、新京、北京、上海、マニラのデータはなし
ところが、日銀券の流通量は増加しない。中央儲備銀は横浜正金銀に持っている口座からの引き出しができないためで、預金残高が積み上がるばかりだった。この「預け合い」と呼ばれる詐術的なシステムは無尽蔵の戦費調達を可能としながら、日本本土での物価高騰も抑えることができた。朝鮮銀行と華北の中国聯合(れんごう)準備銀行の間でも行われ、現地経済を混乱させた。
東南アジアの占領地域については1942年3月、南方開発金庫を設立。43年1月には戦前の現地通貨に応じた「ドル」「ペソ」「ギルダー」表示の南発券が発行されるが、軍票と変わりはなかった。儲備券などと同様に乱発され、信用と価値を喪失。マラヤ(マレー半島南部とシンガポール島など)ではバナナの木が描かれた紙幣は「バナナノート」、フィリピンでは「ミッキーマウス・マネー」とバカにされていたという。
終戦時の東京の物価は約1.5倍。一方で、シンガポールは約350倍、ラングーンは約1800倍にもなっていた。
経済的犠牲を強いられたアジアの民衆には名実共に「紙くず」が残された。
敗戦直後の1945年9月16日の大蔵省声明。
日本政府及陸海軍ノ発行セル一切ノ軍票及占領地通貨ハ無効且(かつ)無価値トシ一切ノ取引二於(おい)テ之ガ受授ヲ禁止ス――。
食糧危機を引き起こした日本軍政
コメ徴発、インドシナでは200万人もの餓死者
戦前の東南アジア地域の交易構造
戦前のアジアは「東南アジア域内交易圏」と呼ばれる経済圏を構成していた。生産と物流の中心は、大英帝国の東洋支配の根拠地シンガポール。ここにゴムと錫(すず)と米という主要産品が主に集積され、他のアジア地域はもちろん、欧米や日本などに輸出されていった。
この経済圏が日本の侵略により、物流と交易を分断された。特にビルマを筆頭にタイ、仏領インドシナという米の3大生産地は、その余剰分(戦前計約548万トン)の輸出先を失う。
日本は逆に利点を見いだしていた。「帝国の食糧給源」として、既に食糧難にあえいでいた本土(戦前の不足は約47万トン)を救えるうえ、アジア各地に散らばった現地軍の自活を満たせるものと期待した。しかし、戦局の悪化により、南方と日本本土を結ぶシーレーン(海上交通路)は崩壊。机上の計算は空論となり、一般国民の食卓からは米が消えてしまう。
アジアではところが、日本以上の食糧危機に襲われていた。輸入に頼っていたシンガポールを含めた英領マラヤ(戦前の不足は約58万8000トン)はもちろん、3大生産地でさえ、米が不足する。特に北部仏領インドシナでは200万人もの餓死者を生じたという。なぜか。
- 日本軍が軍関連工事の「ロームシャ(労務者)」に農業従事者を動員したため、労働力不足が起こった
- 日本軍が耕作用の牛馬を徴発したため、農作業の効率が低下した
- 日本軍が軍票などによる生産物の強制供出を強いたため、農業従事者の労働意欲がそがれた
輸送網の寸断で、需給のバランス崩壊
ジャワ主要穀物生産高推移
米だけではなく、さまざまな穀物の生産効率が同様に低下していった。さらに連合国軍の攻撃はシーレーンだけでなく、東南アジア地域間の輸送網をも寸断。需要と供給という交易のバランスは失われ、消費地に生産物が届かなくなる。食糧不足がアジアにまん延するなかで、皮肉なことに米の一大生産地である下ビルマ(現ミャンマーのイラワジ川下流域)では米が滞貨した。そのため価格が暴落し、農業従事者は作付けを控えるようになってしまったという。
死亡率が出生率を上回ったインドネシア
日本軍政期ジャワの死亡数と出生数
当然の結果が飢餓だった。ジャワ(現インドネシア)は米輸入国(戦前の不足は約25万8000トン)の一方で、戦争継続に絶対的に必要な戦略物資の石油を産出した。日本軍は1942年3月に占領。その2年後には死亡率が出生率を上回り、近代史上初の人口減を記録することになった。
「聖戦」のための労働力 肉体的に収奪
「労働戦士」「経済戦士」の実態は「奴隷」
日本は「聖戦」のための労働力として、アジアの民衆を肉体的に収奪した。ジャワ島だけで約30万人を動員。非人道的な管理下で、約7万人が死んだともされる。「ロームシャ(労務者)」は時にアジア各地から強制的に駆り集められ、異国に送られ、置き去りにされた。終戦時のオランダ政府の調査が、その一端を示す。彼らは「労働戦士」「経済戦士」などともてはやされたが、実態は「奴隷」だった。「ロームシャ」という日本語はそのまま、インドネシア語になっている。
終戦後にアジア各地に残置された「ロームシャ」
「戦場にかける橋」 捕虜も犠牲に
泰緬鉄道建設における生・死者数
こうした労働収奪の代表例が、映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬鉄道(たいめんてつどう=タイ・ノンブラドック―ビルマ・タムビサヤ間、415キロ)の建設工事だろう。1942年6月に着工し、翌年10月には完成した。乏しい食糧と医療設備のなかで、マラリアとコレラがまん延。「線路5~8メートル当たり1人以上の犠牲者を出したとされる『死の鉄路』」(小田部雄次・林博史・山田朗「キーワード日本の戦争犯罪」)だ。
ロームシャはジャワ島はもちろん、ビルマ、タイなどから、20万人以上が建設現場に連れてこられたともいう。犠牲者は4万2000人、5万人、7万4000人と諸説がある。さらに映画に描かれたように、連合国軍の捕虜約6万人も投入された。彼らの犠牲者は約1万5000人に達したとされる。
人種、軍民の違いに関係なく支配下にある人々虐待
日本軍はアジア人だろうと欧米人だろうと人種、軍民の違いに関係なく、その支配下にある人々を虐待した。「南京大虐殺」「シンガポール華僑虐殺」「バターン死の行進」「マニラ市街戦」……。1929年のジュネーブ条約(捕虜の待遇に関する条約)について、政府は陸海軍の反対を受け、批准もしていない。
極東国際軍事裁判(東京裁判)の記録によると、植民地兵を除いた連合国の本国軍将兵(米英蘭加豪とニュージーランド)で、日本の捕虜となったのは計13万2134人。死亡率は27.1%(3万5756人)だったという。これは独伊軍管理下の収容所における連合国軍捕虜(死亡率4%)、ソ連軍にシベリア抑留された日本軍将兵(同11%)に比べてさえ、格段に高率だった。
情けをかけることは戦争を長びかせるだけである(中略)日本軍は聖戦の十字軍である。ためらってはならない。犯罪者は一掃されねばならない。 ―― 1942年4月24日付、英字紙「ジャパン・タイムズ・アンド・アドバタイザー」
日独伊軍管理下の連合国軍民生・死者数
アジアの一番長い日
革命運動家の死、植民地からの独立宣言、傀儡皇帝の退位
終戦直後の1945年8月18日、日本の植民地であった台北の陸軍病院で、1人の革命運動家が息を引き取った。自由インド臨時政府主席のスバス・チャンドラ・ボース。大東亜会議に参加した「ネタージ(指導者)」はソ連亡命の途次に飛行機事故に遭い、48年の生涯を閉じた。
「ドイツ兵は『パリへ』と叫び、日本兵は『シンガポールへ』と叫んだ。同志諸君、諸君の雄たけびは『デリーへ』としようではないか」。独立の夢を大東亜共栄圏に託し、元英軍所属のインド兵捕虜からなる国民軍を編成。インパール作戦(1944年3月~)には6000人のインド人部隊を参加させた(戦死・餓死・病死・捕虜計5300人)。彼の死後、国民軍幹部らには英軍の軍法会議が待っていた。
その前日の17日にはバタビア(現ジャカルタ)で、スカルノがインドネシアの独立を宣言する。しかし、彼は「日本の傀儡」とみなされていた。多数派のインドネシア人に加え、中国人、インドース(アジア人と白人の混血)、アンボン人、オランダ人、英国人らが入り乱れた流血に発展。独立派と日本軍の衝突(スマラン事件)も起こる。
満州国では8月18日、皇帝溥儀が退位した。建国13年5カ月で、「五族協和の王道楽土」は滅亡する。国務総理の張景恵は国民党政府への合流を図り、東北地方暫時治安維持委員会を設立。しかし、8月31日にはソ連軍に拘引され、シベリアに連行される。
フィリピンは戦前、既に米国により、1946年の独立が保障されていた。1943年成立のラウレル政権は傀儡でしかなく、「フクバラハップ(フク団)」などの抗日ゲリラが抵抗運動を展開。44年10月に米軍が再上陸(「アイ・シャル・リターン」)すると、民間人を巻き込んだ血みどろの地上戦が終戦の夏まで続いていた。
戦犯裁判は征服者たちを裁いたが・・・
大東亜共栄圏の野望に燃えた征服者たちには戦犯裁判が待っていた。1946年2月23日。マニラ郊外で、「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文(ともゆき)大将(第14方面軍司令官)が絞首刑に処された。容疑はマニラ市街戦における民間人殺害など。4月3日には同じ場所で、本間雅晴中将(予備役)が銃殺刑となった。日本軍によるフィリピン占領時の捕虜虐待などの責任を問われた。
その一つ「バターン死の行進」については、しかし、大本営参謀の辻政信中佐(当時)の関与があったとされる。フィリピン人らは仲間のアジア人を裏切ったので、処刑しなければならないと主張。山下大将の参謀長時代は「シンガポール華僑虐殺」にも関与したとされる。
「敵に遭遇したら、ついに親の仇(かたき)にめぐりあったものと思え。こやつを殺せば、積もり積もった長年の恨みを晴らすことができるのだ」
辻中佐は将兵を扇動したという。「作戦の神様」ともてはやされたが、皇軍に典型的な唯我独尊の「下克上タイプ」の軍人だった。1939年のノモンハン事件では、ソ連軍に敗れた現地指揮官たちに対し、自決を強要した。戦後の混乱期を生き抜き、戦犯指定は受けずに衆参国会議員に当選。現職中の1961年4月に視察先のラオスで、謎の失踪を遂げている。
アジアを食い荒らした「蝗軍」
現地調達主義、兵士たちの「徴発」の実態
軍隊の装備
兵士の第一の資質は、疲労と重労働に対する持久力であり、勇気は二の次である。貧困と窮迫と欠乏がよい兵士をつくる。―― ナポレオン・ボナパルト
皇軍は中国で「蝗軍(こうぐん)」と嫌悪されていた。軍隊を維持するために占領地を収奪する現地調達主義を初めて、意図的かつ組織的に推進したのはナポレオンだとされる。しかし、日本軍は20世紀においてさえ、近代的補給戦への適応に遅れていた。軍票を乱発した現地軍上層部から、時に40キロを超える装備を背負わされた末端の一兵卒に至るまで、イナゴ(蝗)のようにアジアを食い荒らした。
「日本の軍隊」(吉田裕著)によると、日本軍は野戦炊さん車を生産したものの、個々の兵士が携行する飯ごうに頼り続けた。兵士たちの「徴発」は食糧にとどまらなかった。「(炊飯のために)手当たり次第に家を壊して炊く」「扉や家具を壊せば『良民が困る』と。それはそうだが、薪が無ければ飯が炊けず仕方がない」(ある召集兵の日記)と民衆の生活を破壊した。
蛮行に拍車をかけた高齢の後備役ら
中国派遣軍役種区分(1938年8月1日現在)
皇軍自体の質の低下が、その蛮行に拍車をかけた。戦争の長期化と戦線の拡大により、良質な現役兵(徴兵検査の合格直後に入営)が不足。日本軍は兵力を補うため、現役除隊した予備役や後備役を召集令状(赤紙)により、部隊に復帰させた。彼らは年齢が高いために体力的に劣るうえ、大抵が一般市民としての社会生活を抱えていた。軍事訓練は受けているが、戦意は必ずしも高いとは言えなかった。軍当局は承知していた。
暴力的性向を強めた「占領軍」の構造的欠陥
兵役の関係と年限
日中戦争開戦後2年間の犯罪件数
「応召者の犯せし罪質は軍成立の根元に触るる対上官犯、或(あるい)は聖戦完遂を妨害すべき掠奪(りゃくだつ)、強盗、強姦(ごうかん)等極めて悪質なるもの多発しあり」(1940年9月19日付陸密第1955号)
- 「聖戦」に刃向かう敵を成敗することは当然とする政府・軍部のプロパガンダ
- 降伏することは恥とする「戦陣訓」による教育
- 戦時国際法を無理解、無視した上官将校・下士官による命令
- ビンタなど「私的制裁」がまん延する抑圧的な組織風土
- アジア人に対する蔑視
そうした特質が軍隊の暴力的性向を強め、「解放軍」は「占領軍」と見なされた。ただし、それは個々の兵士だけの責任に帰すことはできない。「国民の軍隊」ならぬ「天皇の軍隊」の、構造的欠陥だったといえる。
心も病んだ兵士たち、急増する疾患者
日本陸軍の精神病患者の割合
精神病患者の割合精神病患者数戦病還送患者数
精神病患者の割合は、1937年は8~12月、1943年は1~8月、1944年は1~4月
戦争の長期化は兵士の体だけでなく、精神をもむしばむ。日本軍には欧米軍隊のような休暇制度もなく、戦争神経症を含む精神病患者の割合は増加するばかりだった。つけの多くを払わされたのは結局、末端の兵士たちだった。
もういやだ、戦争はもうたくさんだ。戦争の栄光なんてたわごとだ。血や復讐(ふくしゅう)や破壊を声高に叫ぶのは、銃を撃ったこともなければ、けが人の悲鳴やうめき声を聞いたこともないやつらだけだ。戦争は地獄だ。――
ウィリアム・シャーマン
(南北戦争時の合衆国軍最優秀の将軍の一人で、
アトランタを焦土とした「海への進軍」を指揮)
「2000万人」「310万人」を比較すると・・・
戦争のできる国になってからでは、
戦争が始まってしまってからでは遅いのです ノーベル物理学賞、益川敏英さんインタビュー
戦争に対し、一人一人の市民はどのように向き合うべきなのか。国家権力の巨大な意志に対し、どのように相対していけばいいのか。ノーベル物理学賞を受賞し、記念講演では反戦演説を行った理論物理学者、益川敏英さん(75)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
子供や孫の将来を考え、これでいいかという疑問が大切
「不謹慎だ。アカデミックな場にふさわしくない」。箱根峠の向こうから、ある学者が批判しているとのうわさが聞こえてきたんです。ストックホルムでのノーベル賞の授賞式(2008年12月)に出発する前です。世界中の人々が集まる記念講演で、太平洋戦争での実体験を話すつもりでした。それを「晴れの舞台で、話すようなことではない」と苦言を呈しているらしい。何を言ってやがるのだと憤激しました。
アルフレッド・ノーベルは自身が発明したダイナマイトが戦争に利用され、「死の商人」とののしられました。だからこそ、巨万の富を人類の発展に役立てたいと願ったのです。まさに記念講演の場こそ、反戦を訴えるにふさわしいではないですか。総理大臣に批判されたとしても、一言一句内容を書き換えるつもりはありませんでした。
1945年3月12日夜の名古屋空襲です。わずかに5歳。それでも、戦争の唯一の記憶として残っています。屋根瓦を突き破って、焼夷(しょうい)弾が...
参考文献
- 「資源の戦争 『大東亜共栄圏』の人流・物流」倉沢愛子
- 「『大東亜共栄圏』経済史研究」山本有造
- 「日本軍政下のアジア」小林英夫
- 「日本の侵略と膨張」吉岡吉典
- 「キーワード日本の戦争犯罪」小田部雄次、林博史、山田朗
- 「日本の軍隊」吉田裕
- 「学歴・階級・軍隊」高田里恵子
- 「地域のなかの軍隊 植民地」坂本悠一
- 「皇軍兵士の日常生活」一ノ瀬俊也
- 「戦争における『人殺し』の心理学」デーヴ・グロスマン
- 「『大日本帝国』崩壊 東アジアの1945年」加藤聖文
- 「廃墟の零年1945」イアン・ブルマ
- 「植民地 帝国50年の興亡」マーク・ピーティー
- 「東條秘書官機密日誌」赤松貞雄
- 「革命家チャンドラ・ボース」稲垣武
- 「『大日本帝国』の研究」フォーチュン編集部
- 「第二次世界大戦」アントニー・ビーヴァー
- 「大日本帝国の興亡」ジョン・トーランド
- 「事典 昭和戦前期の日本 制度と実態」百瀬孝
- 「日本の戦争 図解とデータ」桑田悦、前原透
- 「日本陸軍将官総覧」太平洋戦争研究会
- 「日本陸軍指揮官総覧」新人物往来社
- 戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」
- 戦史叢書「陸軍軍戦備」
- 戦史叢書「捷号陸軍作戦」防衛庁防衛研修所戦史部 など
- 編集
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