北朝鮮のイメージといえば、ミサイル発射実験や拉致問題などがあげられるが、一般住民の姿はなかなか報道では目にしない。彼らは苦しい経済事情の中でどうのように日々生活しているのだろうか。そして国内にどのような変化が生まれているのか。北朝鮮で「絶対秘密」と指定された文書を入手し『北朝鮮・絶対秘密文書』(新潮社)を上梓し、中国内の北朝鮮国境付近での取材も豊富な毎日新聞社の米村耕一氏に話を聞いた。
――今回の検察の秘密文書は、中朝国境付近で北朝鮮住民との接触の中で手に入れたのでしょうか?また1冊の本にまとめようと思ったのはどうしてですか?
米村:検察文書にはさまざまなことが書かれているのですが、たとえば衝撃的な話が出ているわけではないので、新聞記事としては若干使いにくい。ただ、個々の話を見ていくと、世界中で社会主義計画経済がうまくいかずに市場経済へと変化した潮流が、北朝鮮においても例外でないのを感じました。そのことについては、わりと知られているかも知れませんが、実際に彼らの考え方や行動パターンが、いかに変化しているかを示す資料はあまり北朝鮮国外には出ていませんでした。ところが、北朝鮮の最高検察書が作成した秘密文書には、国を統治する側の視点で、市場経済が浸透する過程で社会がどう変化し、住民の行動パターンがどう変わっていっているのか、そして統治する側がいかに困惑しているかが具体的に記述されていました。そこに新鮮さや面白さを感じたのです。
――具体的には、どのような変化が読み取れるのでしょうか?北朝鮮では、国が住む場所や働く場所を決めているのですよね?
米村:そうです。でも決められた場所で働いていても、工場は稼動していませんし、農業にしても生産が充分でないため、給料は出ませんし、食べていくこともできません。だから市民は副業をするのです。たとえば農場労働者だけれども金鉱や炭鉱で働くケースが出てきます。
――どうやって本来の仕事でない職場で働くのですか?
米村:他の仕事をしてしまうとお咎めはありますが、管理者に賄賂を渡せば、実際には炭鉱や金鉱で働いていても農場で働いていることにしてくれます。そういった仕組みそのものが非常にルーズになっているのが現状で、「食べていけないのだから仕方ない」といった共通認識が北朝鮮社会全体にあります。1990年代半ばの苦難の行軍と呼ばれる何十万人もの餓死者が出た時代を経て、それまでのカチッとした社会の仕組みが緩まったのでしょう。
――管理者が賄賂を受け取っているということは、農民などの市民だけでなく、政府関係者も副業をしているのでしょうか?
米村:そうですね。昨年1月に朝鮮人民軍の機関紙に、金正恩第一書記が軍部隊を視察した様子が掲載されていました。その中で、部隊の演習が下手だったことに怒った金正恩さんは「あなたたちは食べていかないといけないから、副業をしなければならないし、国の経済に貢献しないといけないのもわかる。ただ、軍人なのだから訓練のほうが優先されるべきだ」という旨の発言をしています。つまり、副業をしなければ食べていけないことは指導者の考え方として織り込み済みなんですよ。政府関係者も市民も少しずつ副業をすることで社会が回っているため、エリート層といえども副業を全否定することはできません。彼らは、その副業の上がりで食べているわけですから。
――一般市民の中では、先程の金鉱や炭鉱の他にどんな副業が多いのでしょうか?
米村:たとえば、とうもろこしでお酒をつくるといった食品関係の副業が一番多いのではないかと思います。
また秘密文書の中に出てくる孔イチョルさんという元農場員の男性は、磨鉱機と呼ばれる機械をお金持ちからの資金を得て入手した可能性が高く、それを使い金鉱ビジネスで大成功していました。
――他に、本書の中で驚いたのが覚醒剤が国内で蔓延していると。
米村:中国の北朝鮮国境地帯で、何度か北朝鮮人が覚醒剤を携帯しているのを見ましたし、かなり手に入りやすい状況になっているのは確実だと思います。
ある北朝鮮の方の話では、かつては日本へ大量に密輸していたのですが、日本側の取締りが厳しくなり、今度は中国へ密輸したがそちらも厳しくなったので、作られたものが国内で循環するようになったそうです。
――北朝鮮でももちろん覚醒剤は非合法ですよね?
米村:当然禁止されています。ただ、多くの場合、捕まったとしても賄賂を渡せば済むとも聞きます。
――中国の北朝鮮国境付近で米村さんはこれまでに多くの北朝鮮の方々に接触し取材されてきたわけですが、その人たちは貿易関係の仕事に就いている人が多いんですか?
米村:もちろん貿易商もいますが、親戚訪問で通行証が出るので、個人的な用事で行き来し、そのついでに少し商売もしている人もいますね。通行証を手に入れるには、中国に親戚がいることと、お金が必要になります。
――北朝鮮にとって中国は、政治的にも、経済的にも、そうした国境付近の交流といった点でも大きな存在だと思うのですが、あらためてどんな存在だとお考えになりますか?
米村:北朝鮮政府の立場と、住民の立場、どちらで考えるかで違ってくると思います。住民の立場で言えば、中国にはお金も食べ物もある夢のような国だという人も少なくありません。国境付近で知り合いになった北朝鮮の女性は、可能ならば北朝鮮の人間は全員中国に出てくるだろうとまで言っていました。
また、政府関係者、とりわけエリート層で初めて中国を訪れた人の中には、中国の地方都市の町並みを見ると、ため息をついて、本当に中国は電気が有り余っているんだなと漏らす人さえいます。我々からしたら普通なことですが、平壌から来た人にとって中国の豊かさは衝撃的なものに映るのです。一方で、こうした中国の豊かさは、北朝鮮の体制安定に悪影響を与える可能性も十分にあります。ですから、羨望と警戒、依存心と恐れなど、さまざまな感情が入り交じっているのではないでしょうか。
――豊さという点ではたとえば携帯電話の普及はどうなっているのでしょうか?
米村:北朝鮮でも携帯電話は200万台くらい普及しています。エジプトの企業が進出し、北朝鮮国内で使える携帯電話をつくっています。もちろん盗聴はされていると思いますが、日常的に使うのは問題ないようです。ただ、携帯電話を充電することに関しては悩ましく、平壌のごく普通のアパートでは1日24時間のうち電気が通るのは3~4時間なので、その間に必死に充電しないとなりません。
――中国の北朝鮮国境付近には、多くの朝鮮族の方々が住んでいるわけですが、その人たちにとって北朝鮮の存在とは?
米村:同じ朝鮮族の方々からすれば、彼らが文化大革命の時のような生活をしているので、懐かしいけど、可哀想という人が多いですね。だから一生懸命支援している方々もいます。ただ、苦難の行軍、そしてたくさんの脱北者が出た時代からもう25年も経つので、支援疲れというのでしょうか、助けても助けてもキリがないという気持ちもあるようですね。
――政府関係者や一般住民も副業をしなければ生活できず、中国に憧れを抱いている北朝鮮内で、金正恩さんがトップになったことで変化は見られますか?
米村:結論から言えば、本質的にはそれほど変化していないのではないかと思います。たとえば金正恩さんがトップに立ってすぐに手がけたものに経済改革があります。
実はもともと、北朝鮮国内で市場経済を研究していないわけではありません。アメリカやカナダからの招きに応じて経済官僚を送ったこともあります。自分の目で見たことで記憶に残っているのは、金正日さんが亡くなった時に、海外在住の北朝鮮のエリート層が平壌へ帰るため、北京空港に大挙して押し寄せた時のことです。その様子を見に行くと、40代くらいの北朝鮮エリートが大量の教科書の束を抱えていました。なんとその中には、アメリカの経済学者クルーグマンの教科書があったんです。
金正恩体制が本格的にスタートした12年5月頃に始まった経済改革の話に戻ります。特に重要なのは農業改革でした。もともと北朝鮮の農場は基本的に全て協同農場です。1000~2000人規模の人たちが一つの農場で働いています。それぞれが数十人規模の「作業班」に分かれ、農作業に従事しています。そして収穫した生産物は全ていったん国家に納めた後、決められた分が農場員たちに分配されるという仕組みです。
このやり方では自分の田畑を持ち、創意工夫して収穫量を増やしたり、高値で売れそうな作物を狙ったりする個人農業に比べ、やる気が出ませんよね。そうした問題意識は北朝鮮にもあって、農場員の「やる気」アップを狙って「分組管理制」と「莆田担当制」といった仕組みが導入されました。「分組管理制」は、おおざっぱに言えば数十人規模の「作業班」の下に家族単位の分組を置き、その分組で農作業をすることです。「莆田担当制」は、農地の一部をそうした分組に割り当て、担当を決める仕組みです。つまり、協同農場という大枠の仕組みは崩さずに、でも家族ごとに担当する田畑を決め、「自分の農地」といった感じを出して、「やる気」を出させようという政策でした。一部では取れた作物の6~70%は自分たちのものにできるという仕組みも導入されたとされています。
ただ、実際に2012年以降に脱北した農場労働者の証言によると、それほど効果は上がっていないようでした。協同農場そのものが解体されず、農場幹部から各作業班の班長、分組長と縦の系列が生きているため、個別の農場員にはそれほど裁量の自由はありません。また、そもそも収穫後の脱穀は作業班ごとに集めて行われるので、収穫物は自分の手から離れてしまいます。こうした事情のため、「自分の田畑」、「取れた分だけ自分のものになる」といった意識には、さほどつながっていないようです。
協同農場は金正恩さんの祖父、金日成国家主席が始めたものですし、また国民の多数を占める農場員たちを統制、管理するために不可欠な組織でもあるので、これを解体することはそう簡単にはできません。そういう意味で、金正恩さんになっても国家の仕組みに大きな変化は起きていないと考えています。
――改革が行われている一方で、市民のみならず政府関係者までも賄賂を受け取ったり、副業をしていると。今後、どう変わっていくのでしょうか?
米村:中国が改革開放で成功し、豊かになったという認識も広がっているので、住民としては本質的な改革をして欲しいと考えています。だからこそ、金正恩さんも改革というメッセージを送り続けなければならないのです。中国の改革開放の象徴は、人民公社を解体したことです。それまで協同での農業や家畜業から、1軒1軒で農業や家畜の飼育をやるようにドラスティックに変えました。そうした個人農という形態があることも北朝鮮住民はわかっています。
北朝鮮の住民は、副業で食べているわけですから、実際には市場経済に近い。副業を通して、どういった社会になれば住民がよく働くかも理解している。ところが、副業に関して言えば、ある程度は許容されるけれども、やり過ぎてしまうと捕まります。だから、お互いにものすごく空気を読んでいます。まわりを見ながら、自分は親戚に政府に対しコネがある人がいるから、ここまでやっても問題ないというように。ただ、段々とその範囲が大きくなっている状況だと思いますね。
――そうなると、最終的に政権が転覆することもあり得ますか?
米村:そういった可能性はあるとは思いますが、その前段階として、一見きちんと統制されている国ですが、朝鮮労働党の政策通り実行されなかったり、上からの命令が無視されたりされる実情があります。政府や党の関係者が関わっているのだけれど、市場経済的な取引が行われている「グレーゾーン」のようなものがあり、徐々にそれが広がっている状況です。このグレーゾーンを許容しないと一般住民も、その上積みで食べているエリート層も食べていけなくなる。だから政府の統制の枠から外れていても放置されるわけですが、逆に言えばこのグレーゾーンで何が起きているのかは政権側もあまり把握できていないのではないかと考えています。
たとえば日本などでは、脱税する人もいますが、徴税のため基本的には国民がどういう経済活動をしているのかちゃんと把握できる仕組みがあります。しかし、北朝鮮では住民たちがどれくらいの経済活動をし、お金をどれくらい持っているのか、きちんと把握する仕組みがない。政権が握っているお金より、一般住民が隠し持っているお金のほうがどんどん増えていっている状況です。
お金と人望や影響力はリンクしますから、指導者層がわからない資産家が生まれ、そういう人たちの周囲に人が集まり、といった段階を経て、徐々に不安定な要素が大きくなっていくのではないでしょうか。
――そういう事態の前に、住民たちが蜂起する可能性はないのでしょうか?
米村:これまで1度もないですから、今すぐにというのは難しいと思います。北朝鮮のような独裁政権は2つのメカニズムで動いています。ひとつは政権とエリート層、もうひとつは政権と一般住民とのそれぞれ緊張関係です。
北朝鮮の政権とエリート層との関係は建国以来70年近く、3世代にわたって続いているので非常に強固で安定していると見るのが自然です。一方、政権と一般住民との関係は、市場経済の広がりとともに、社会自体がどんどん変化していく中で次第に不安定さを増している。政権にとって把握が難しく、予測も困難なエリアが国内にひろがっている。ですから、エリート層によるクーデターの可能性は低いですが、いますぐということではないけれども、段々と社会が変化し、指導部が社会の変化についていけずに権威が落ち、将来的には息詰まるような管理社会、統制社会に我慢できなくなる人たちが増え、最終的には反乱などが起きる可能性はあると思っています。