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「世界と日本」史(4 )- <米欧回覧と文明開化>「国民皆学」と「国民皆兵」

이강기 2020. 1. 30. 17:32

<米欧回覧と文明開化>第4回~「国民皆学」と「国民皆兵」 

          


          

走り出す留守政府

約定12か条(「大臣参議及各省卿大輔約定書」、国立公文書館蔵)
約定12か条(「大臣参議及各省卿大輔約定書」、国立公文書館蔵)

 岩倉具視、木戸孝允らがアメリカに長逗留(ながとうりゅう)している間、留守政府の大隈重信や井上(いのうえ)(かおる)、江藤新平、山県(やまがた)有朋(ありとも)らは、使節団との「約定」に拘束されず、軍事・教育・税制面で近代化政策を展開していきます。

 この「約定」というのは、使節団出発3日前の1871(明治4)年12月、岩倉や木戸、大久保利通らの使節組と、留守を預かる三条実美(太政大臣)、西郷隆盛(参議)、大隈重信(同)、板垣退助(同)らの間で交わされた、「約定12か条」の覚書のことです。

 覚書は、「国内外の重要案件は、お互いの報告を欠かさない」、「内地の事務は、大使が帰国のうえ改正するので、なるべく新規の改正をしない」、「諸官省長官の欠員は任命せず、官員も増やさない」などとしていました。

 つまり、新規事業や重要人事を事実上、凍結する内容でした。しかし、留守居組は、大隈の表現を借りれば、既定の施策はもとより新規の政策を、「前後を顧慮する(いとま)もなく」、あれよあれよという間に「短兵急に断行」(『大隈伯昔日(たん)』)していったのです。

 しかし、その後、使節団のアメリカでの条約交渉失敗をはじめ、留守政府による新規政策や太政官制改革など「約定違反」の出来事が相次ぎます。それは使節団と留守政府との間に(きし)みを生じさせ、岩倉使節団帰国直後の大政変(明治六年政変)の一因になります。

身分制度の廃止

 明治維新が人々にもたらした変革のはじまりは、封建的身分制度の廃止でした。

 69年の版籍奉還で藩主―藩士の主従関係が解消されたのに伴い、政府は、これまでの藩主・公家を「華族(かぞく)」、藩士や旧幕臣を「士族(しぞく)」、百姓・町人を「平民(へいみん)」と定めました。72年、平民には、苗字(みょうじ)(名字)をつけることが初めて許されました。また、華族・士族・平民相互の結婚も許可されました。

 71年5月には戸籍法が定められ、「四民(士農工商)平等」の見地から、これまでの身分を基本にした「宗門(しゅうもん)人別帳(にんべつちょう)」をやめ、居住地別に記載する統一戸籍が編成されます。

 73(明治6)年当時の日本の総人口は、合計3330万672人だったというデータがあります。内訳は華族2829人、士族154万8568人、卒(足軽などの下級武士)34万3881人、平民3110万6514人、その他(僧侶や神職など)29万8880人で、平民が全体の93%を占めていました。

 71年10月、政府は、いわゆる解放令(穢多(えた)非人(ひにん)等の称廃止令)を布告し、封建的身分制度で最下層だった賤民(せんみん)身分を廃止し、身分・職業は「平民同様たるべき事」としました。ところが、行政府みずからが廃止令に反し、旧賤民身分に「新平民」の呼称を用いて差別扱いしました。その後も、被差別部落の住民に対する社会的、経済的な差別は解消されず、西光(さいこう)万吉(まんきち)らが差別の撤廃を求めて「全国水平社(すいへいしゃ)」を結成するのは、1922(大正11)年のことです。

学制公布

 明治維新当時、わが国には、徳川時代からの寺子屋や藩校、郷学(きょうがく)、私塾など多数の教育機関がありました。

設置当初の文部省(国立国会図書館蔵)
設置当初の文部省(国立国会図書館蔵)

 維新政府の成立宣言といえる「五箇条の御誓文(ごせいもん)」は、「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り」「智識(ちしき)を世界に求め」と、新しい教育の指針を示しました。

 69(明治2)年1月、木戸孝允は、「人民の富強こそが国の富強」の礎であり、一般人民に知識がなくしては維新も空名(くうめい)に終わるとして、「全国に学校を振興」するよう唱えました。伊藤博文も、東西両京に大学を、郡村に小学校を設けることを提案しました。

 ただ、こうした文明開化の教育路線は、儒学や国学中心の教育を求める論者から批判を受け、直ちに政府の受け入れるところにはなりませんでした。

江藤新平(国立国会図書館蔵)
江藤新平(国立国会図書館蔵)
大木喬任(国立国会図書館蔵)
大木喬任(国立国会図書館蔵)

 廃藩置県直後の71年9月、教育行政を担当する文部省が設置され、文部大輔(たいふ)(文部次官)の江藤新平(1834~74年)が最高責任者になりました(文部卿=文部大臣は欠員)。

 当時、新政府の教育行政機関だった「大学校」は、国学派と儒学派と洋学派が対立して紛争を続けていました。江藤は、文部省に加藤弘之(のちの東京大学総長)や箕作(みつくり)麟祥(りんしょう)(のちの行政裁判所長官)ら洋学者を採用し、教育行政にも啓蒙(けいもう)主義路線を敷きます。

 江藤と同じ佐賀藩出身の大木(おおき)喬任(たかとう)(1832~99年)が文部卿に就任し、72(明治5)年9月、日本の基本的な学校制度を定めた法令「学制(がくせい)」が公布されました。


「不学の戸」をなくす

 「学制」の趣旨を明らかにした「被仰出書(おおせいだされしょ)」(学事奨励に関する太政官布告)を読んでみましょう。

 まず、「学問は身を立るの財本(ざいほん)」にして、「人たるもの誰か学ばずして可ならんや」と、国民すべてに学問が必要だと強調。そして今後は、「一般の人民、必ず(むら)不学(ふがく)の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」と、男女の別なく、すべての子供を小学校に就学させるとしています。

 言わば<国民皆学(かいがく)>のススメです。

 また、授業も、「国家のため」と唱えて「空理(くうり)虚談(きょだん)」(無駄な理屈)に陥っていた従来型を改め、読み書きそろばん、職業上の技芸、法律・政治・天文・医療など実学を重視するよう求めました。

 この内容は、福沢諭吉著『学問のすゝめ』(72年3月に初編刊行)に記された「一身独立して一国独立す」の思想の影響がみられます。当時、福沢の感化力は大きく、「文部卿は三田(慶応義塾の所在地)にあり」とまでいわれていたそうです。

 学制の本文は、全国を8大学区に区分し、各大学区に大学校1、中学校32、各中学区に小学校210を設ける計画を示し、国民はすべて6歳で入学するとしていました。学区制はフランスがモデルでしたが、これだと小学校を全国で計5万3760校もつくる勘定になります。人口600人に1校というのは、いかにも非現実的で、結局、机上のプランに終わりました。

 しかし、文部省は、小学校の設立に力を注ぎ、75年には全国に2万4303校が生まれます。就学率も35%(男子51%、女子19%)になりました。就学が敬遠された理由は、児童が貴重な労働力であったことや授業料負担にあったようです。

小学教則(国立公文書館蔵)
小学教則(国立公文書館蔵)

 73年の「小学教則」で、教科は「読物・算術・習字・書取・作文・問答・復読・体操」の八つに定められました。福沢が世界の地理や歴史について書いた『世界(せかい)国尽(くにづくし)』も、授業で使われていて、児童らは「世界は広し万国は、多しといえど、おおよそ五つに分けし名目は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、北と南のアメリカに、境限りて五大州」などと、名調子の七五調で暗唱し、世界への目を養いました。


徴兵令と山県有朋

山形有朋(国立国会図書館蔵)
山形有朋(国立国会図書館蔵)

 政府は71年3月、薩摩・長州・土佐の3藩の合計1万の兵によって、親兵(のち近衛兵に改称)を編成し、自前の軍隊をもちました。8月に廃藩置県の詔書が出されると同時に、兵部(ひょうぶ)大輔(たいふ)に就いた山県(やまがた)有朋(ありとも)(1838~1922年)は、旧藩兵の解散を告示し、全国の兵権(へいけん)(軍を指揮する権能)を掌握します。

 72年4月、兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が置かれ、山県は陸軍大輔に任命されました。長州藩士の山県は69年から、薩摩藩士の西郷(さいごう)従道(つぐみち)(1843~1902年、隆盛の弟)とともに赴いた、1年間にわたるヨーロッパ軍制視察で、西洋文明の洗礼を受けていました。兵制の採用にあたり、山県は、「プロイセン式」を志向しましたが、陸軍はすでに「フランス式」を決定済みでした。

 同年12月、「全国募兵」の制を設けるとの徴兵の詔書が発せられます。次いで翌73年1月10日、国民の兵役義務を定めた徴兵令が出されます。

徴兵の詔書(国立公文書館蔵)
徴兵の詔書(国立公文書館蔵)

 徴兵の詔書と同時に公にされた太政官の告諭(こくゆ)は、大政一新して、士族も平民も等しく皇国の民であり、国に報いる道に別はない、と述べています。国民皆兵(かいへい)論者だった故・大村益次郎の遺志は、ここに生かされました。

 しかし、国民皆兵制は士族の既得権を(おびや)かすものでしたから、政府内でも賛否両論が沸き上がりました。

 反対論者は、「武芸や戦争を知らない農工商の子弟は、その任に()えられない」「我が国の地勢では、ヨーロッパの大陸諸国のように徴兵で大兵を備える必要はない。英米両国のように志願制がよい」などと主張しました。

 これに対して、賛成派は「志願制にすれば、薩長その他の強藩の兵ばかりになり、戊辰戦争で敗れた東北諸藩の兵士は徴兵を拒否し、そこに対立が生まれる」「財政上も、志願制は徴兵制に比べ、多額の経費を要する」などと反論しました。

 徴兵の詔書が出た翌日の72年12月29日、大きなスキャンダルが発生しました。政商・山城屋(やましろや)和助(わすけ)が陸軍省内で割腹自殺したのです。

 山城屋は長州藩奇兵隊で山県の部下でした。陸軍省出入りの御用商人として、巨利を博し、パリで豪遊していたところを目をつけられ、帰国後、借用した公金の返済を迫られ万事休したようです。

 この不祥事で山県は窮地に追い込まれ、近衛都督を辞します。西郷参議がこれを兼務し、近衛兵の動揺を抑えて、山県は政治生命をつなぎます。それでも山県には、幕末の長州藩で奇兵隊という精兵をつくりだした実績がありました。それが徴兵制反対論を抑えるうえで役立ったといえます。

徴兵逃れ

 徴兵令によると、男子17歳から40歳までを兵籍に登録して国民軍とします。20歳をもって徴兵検査を行い、さらに抽選をもって現役に徴募して3年の常備軍を編成するとしていました。

 常備軍役を終えた者は、家に帰って仕事をしますが、年に1度の短期勤務のある第一後備役2年、勤務のない第二後備役2年の合計7年間にわたる兵役義務を定めていました。

 しかし、徴兵令にはたくさんの「例外」(免役制)が設けられていました。

 例えば、身長5尺1寸(約1メートル54センチ)未満の人や、官吏、医科学生、海陸軍・官公立学校生徒、外国留学者などは兵隊にとられませんでした。また「一家の主人」(戸主)とその後継ぎ、一人っ子、一人孫などや、養子も除外されました。このため、徴兵検査の前にいったん誰かの養子に入って徴兵を逃れる「徴兵養子」という言葉がありました。

 さらに代人料といって、270円を上納すると「常備後備両軍を免ぜられる」という金持ち優遇の仕組みもありました。つまり、国民皆兵といいながら抜け穴だらけで、「徴兵逃れ」は後を絶ちませんでした。

 陸軍現役兵の徴集人員は、73年の2300人で始まり、次第に免役条件が狭められ、「国民皆兵」の原則に近づいていきます。

地租改正

 明治政府は、各藩の借金を引き受けました。ただし、そのすべては負いかねるとして、踏み倒したケースも多かったようで、大名に金を貸していた34の商家のうち23家が倒産したと言われます。

井上馨(国立国会図書館館蔵)
井上馨(国立国会図書館館蔵)

 発足したばかりの明治政府の財政は、それだけ困難を極めていました。各省から予算要求が殺到し、それぞれの政策を実施するには安定した財源が欠かせませんでした。

 政府の歳入は、それまで農民が年貢として納める米で賄われてきました。ところが、豊年と凶年で収穫高に増減があるうえ、全国から集まる米の保管も大変でした。

 土地税制改革は、摂津(せっつ)県知事だった陸奥(むつ)宗光(むねみつ)らが具体的なプランを提出し、論議が活発化しました。とくに政府機関の制度寮にいた神田孝平(たかひら)は70年、米納原則の弊害を指摘、田地売買を許可し、金納(きんのう)に改めるよう提案しました。

 こうした中、大蔵省は、財政再建を期して土地と税制の大改革、すなわち「地租(ちそ)(土地に対して課する収益税)改正」にいよいよ着手します。

 岩倉使節団出発前の71年10月、大蔵卿・大久保利通と大蔵大輔・井上馨が、統一国家にふさわしい新税制の必要を建議します。租税負担の公平を図ること、「米納」に変えて「金納」租税に統一すること、土地売買の自由などが政府の基本方針として打ち出されます。

 72年、田畑永代(えいたい)売買(ばいばい)の禁止令を解除、土地の所有者を確定し、地券(土地所有権を示した証券)を与えます。地券には、土地収益から算定した地価が記載されており、これに基づいてその3%を地租として徴収することにしました。さらに地方税として1%が加算されることになります。

 地租改正は、73年7月に条例が公布され、81年までにほぼ完了します。

太陽暦の採用

 政府は旧暦(太陰(たいいん)太陽暦)を廃止して太陽暦を採用することにしました。これも西洋諸国にならったものです。

 その移行を前にして72年11月9日(旧暦)、改暦の式が皇居で行われました。明治天皇は伊勢神宮を遥拝(ようはい)した後、明治5年12月3日をもって明治6年1月1日となす、と告げました。

 天皇が正院で太政大臣・三条実美に示した改暦の詔書によれば、その理由として、2、3年ごとに「(うるう)月」を置かなければならない太陰暦に比べて、太陽暦は4年ごとに1日を加えればよく、最も精密で極めて便利である旨を挙げていました。

 また、これとは別に、国家財政の上からも太陽暦導入の必要に迫られていました。明治政府は、官吏の俸給を前年から月給制としたため、13か月になる閏年では、支出額が1か月分増えてしまいます。当時、そんな財政余力はなく、来年に閏年が迫る中で、太陽暦の実施を決断したというわけです。

 しかし、突然の暦の変更で迷惑をこうむったのは庶民です。当時は、商取引で「大晦日(おおみそか)払い」が多く、突然、それが1か月繰り上げられたわけですから、商工業者らはさぞや大あわてしたことでしょう。

「新政反対」一揆

 こうした新政府による一連の近代化政策は、国民の間に新たな負担・不安感を与え、これに反対する「一揆(いっき)」が頻発します。

 とくに徴兵制の「兵役義務」は、これを忌避する道はあったにもかかわらず、反発が広がります。とくに徴兵告諭の中に、西洋人は兵役を称して「血税」と言い、「其生血(そのいきち)(もっ)て国に報ずるの(いい)(意味)なり」と書かれていたことから、徴兵が生き血をとるという流言を生んだのです。

 このため、徴兵令制定の73年から74年にかけて、三重や福岡、大分、愛媛各県など西日本を中心に徴兵令反対の農民一揆(血税(けつぜい)一揆)が続発しました。73年5月の北条県(岡山県)美作(みまさか)地方の一揆には、大阪鎮台の軍隊が出動し、処罰者は死刑も含めて2万7000人近くに上りました。

 これら一揆の理由には、徴兵だけでなく地券発行や断髪・洋服、小学校の建設費負担、新暦採用なども挙げられていました。なかでも地租改正は、農民たちに対し、これまで以上に重い税が課されるのではないかという強い不安を与えていました。税の軽減を求める一揆の発生を受けて、政府は77年、地租の税率を2.5%に引き下げます。


【主な参考・引用文献】
▽中村隆英『明治大正史(上)』東京大学出版会▽宮内庁『明治天皇紀 第二』(吉川弘文館)▽山住正己『日本教育小史―近・現代』(岩波新書)▽岡義武『山県有朋―明治日本の象徴』(岩波新書)▽山本正身『日本教育史―教育の「今」を歴史から考える』(慶応義塾大学出版会)▽山住正己校注『日本近代思想体系6 教育の体系』(岩波書店)▽勝田政治『明治国家と万国対峙』(角川選書)▽毛利敏彦『江藤新平―急進的改革者の悲劇』(中公新書)▽同『明治六年政変』(同)▽辻田真佐憲『文部省の研究』(文春新書)▽山本博文ほか『こんなに変わった歴史教科書』(新潮文庫)▽大江志乃夫『徴兵制』(岩波新書)▽加藤陽子『徴兵制と近代日本1868-1945』(吉川弘文館)▽佐々木寛司『地租改正―近代日本への土地改革』(中公新書)▽田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(新潮文庫)▽高校歴史教科書『詳説日本史B』(山川出版社)

プロフィル
浅海 伸夫( あさうみ・のぶお
 1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。