自由貿易帝国主義
岩倉使節団は1872(明治5)年8月17日、イギリスのロンドンに到着しました。
イギリス経済は1840年代、どん底状態にありましたが、51年、ロンドンで開かれた第1回万国博覧会を機に高度経済成長の波に乗ります。全館ガラス張りの大展示館「水晶宮(クリスタル・パレス)」が人気を集め、5か月半で延べ600万人を超える入場者を記録しました。
この大イベントは、「世界の工場」と称されたイギリスの経済力と技術水準を各国に誇示する場となりました。
1840~60年代のイギリスは、海外膨張の時代でもありました。
この時にとられた帝国政策は、イギリスの研究者によって「自由貿易帝国主義」と名付けられています。ここでは、政治的には独立国であっても、イギリスの圧倒的な経済勢力圏に取り込んでしまう形を「非公式帝国」(ラテンアメリカ諸国や中国など)と呼びます。これが
実際、日本も、この政策の例外ではなく、54年の日英和親条約、58年の日英修好通商条約締結により、イギリスに有利な自由貿易を強いられていました。岩倉使節団は、ロンドンで、この不平等条約改正へ地ならしの交渉をするわけですが、結局、進展はみられませんでした。
ヴィクトリア女王
そのころのイギリスは、ヴィクトリア女王(1819~1901年)の治世でした。女王は37年に18歳で即位し、ドイツ出身のいとこアルバート公と結婚、9人の子供を産みました。在位は64年の長きにわたりました。
40~50年代には、清朝を相手にアヘン戦争やアロー戦争(第2次アヘン戦争)を起こす一方、57~59年のインド大反乱を鎮圧したあと、直接統治に乗り出し、77年、インド皇帝に即位します。
岩倉使節団が予定より大幅に遅れて到着した結果、避暑でスコットランドの離宮にいた女王とは、すぐに謁見できませんでした。結局、ロンドン郊外のウィンザー城で、女王と会見できたのは12月5日のことです。
女王は席上、その右隣に座った第2王子・エジンバラ公が、69年8月に訪日した時の日本の接遇に謝辞を述べました。
実は、日本政府は、エジンバラ公が皇居の門を通る際、外国人の「
大久保利通の手紙
岩倉使節団は、4か月にわたるイギリス滞在中、数多くの産業都市を訪れました。大久保利通がその模様を西郷隆盛に手紙で伝えています。
「首府(大都市)ごとに、製作場(工場)あらざるはなく、なかんずく盛大なるはリバプール造船所、マンチェスター木綿器械場(綿紡績工場)、グラスゴー製鉄所、グリーノック白糖器械(精糖工場)、エジンバラ
これに次ぐ大小の器械場、枚挙するにいとまあらず、英国の富強をなす
イギリスでは、1830~40年代に鉄道ブームが起こり、鉄道営業距離は急速に伸びて、60年までに蒸気機関車が全土を走っていました。
使節団の記録係・久米邦武は、イギリスの旅を次のように総括しました。
<英国は商業国である。船を五大洋に派遣し、世界各地から天産物を買い込んで自国に運び、それを石炭と鉄の力を借りて工業製品とし、ふたたび各国に輸出して販売している。欧米列国で工業生産を志すものは、その生産原料を英国市場において求めなければならない。また、農業に従事する者もまた、その収穫した産物を英国市場に向けて取引しなくてはならない。ロンドンという一つの都市に世界的大市場が成立し、世界の工業生産や貿易が盛んになるに従って、ロンドンはますます繁栄し、いまや350万の人口を持つ大都市となるに至った>(『現代語訳 米欧回覧実記』)
大久保も、世界一のイギリスの経済力の源泉は「工業生産と貿易」にあると見極めました。そして元薩摩藩士の
しかし一方で、大久保は、イギリス滞在中、同行者に「私のような年取ったものは、これから先の事はとても駄目じゃ、もう時勢に応じられんから引くばかりじゃ」と弱気な言葉を吐いています。イギリス人から、同じ島国の日本は「東洋のイギリス」と言われても、なぜ、こんなに彼我の差が生じたのかを考えると、前途多難を思わざるを得なかったのでしょう。
殖産興業政策を推進
大久保は、次の訪問国であるプロイセンの日程を終えると、一足早く帰国の途につき、73(明治6)年5月26日、帰国します。
大蔵卿(大臣)だった大久保は、「明治六年(征韓論)政変」を乗り切ったあと、殖産興業政策の推進機関として「内務省」を設置(73年11月)して内務卿を兼務しました。
「おおよそ国の強弱は人民の貧富に
この政策こそ、日本に、欧米で生まれた資本主義――工場や機械・原材料などの生産手段を所有する資本家が、労働者から労働力を商品として買い、生産活動を行って利潤をあげる経済体制――を独自に導入・移植しようとする試みにほかなりませんでした。
殖産興業は、すでに70年に設置された工部省が手がけていました。まず、鉄道を敷設し、旧幕府が経営していた佐渡・
通信では71年、
大久保は、内務卿として、農業技術の近代化と農地開拓を進めます。
前者は、現在の東京・新宿御苑の地に置かれた
安積疏水と富岡製糸場
安積開拓事業は、猪苗代湖の水を安積平野に引いて田畑の干害を防ぐとともに、新田を開いて困窮した士族の授産に結びつけるものでした。ここで設けられた全長約130キロ・メートルの水路が「安積
1876年、大久保は福島県を訪れたのを機に、この開拓事業を推進します。実際の工事は79年10月に着工され、82年10月に完成しました。ただ、大久保自身は、安積疏水を含む国土計画に関する7大プロジェクトを建議した直後の78年5月、テロで死去したため、安積疏水を見ることはできませんでした。
大久保はまた、官営模範工場の設立を主導します。76年に毛織物の
国内初の官営器械製糸場である「
大久保は、貿易と海運を外国人の手から取り返すため、生糸や茶などの産品の直輸出を試みています。同時に、政府の所有船を旧土佐藩出身の岩崎
このようにして大久保は、「政府主導によって世界市場に適応しうる資本主義的生産様式を造り出していこうとした」(三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』)のでした。
お雇い外国人
安積の干拓事業では、オランダ人技師のファン・ドールンが72年に来日し、工事の設計にあたりました。また、富岡製糸場でも、フランス人のブリューナらが、製糸機械を買い付け、熟練の技師や工女を日本に連れてきました。
明治政府は、欧米諸国から多数の「お雇い外国人」を採用しました。それも殖産興業分野に限らず、政治・法制・軍事・外交・金融・財政・教育・美術・音楽など人文社会分野まで多岐にわたります。
フランスの法学者で民法・刑法の起草にかかわったボアソナード、ドイツの法学者で明治憲法の生みの親と称されたロエスレルは、その代表的存在です。また、条約改正や日清、日露両戦争時の外交交渉に参画したデニソンと、教育令の作成などに貢献したモルレーは、いずれもアメリカ人でした。
殖産興業政策を建言したドイツ人化学者のワグネル、岡倉天心(明治美術界の指導者)とともに東京美術学校の設立に努めたアメリカ人哲学者で美術研究家のフェノロサもいます。彼らは皆、日本でそう呼ばれるままに「YATOI」と自称した、お雇い外国人でした。
明治政府は、欧米の生産技術や近代的な制度を上手に導入・移植するには、直に教えを請うのが効率的と考えていました。多数の日本人留学生も、すぐには役立たず、当面は外国人教師に頼らざるをえなかったのです。
政府雇用の「お雇い外国人」は、74、75年にそれぞれ約520人を数えたのが最多で、技術者と学術関連の教師が約7割を占めていました。大久保が内務卿として殖産興業の展開した時期にあたります。国別では、イギリスが半数以上を占め、フランス、アメリカ、ドイツの4か国がこれに続きました。
お雇い外国人の74年の月給をみますと、800円(太政大臣相当)以上が10人を数えています。大久保の月給500円に対して、ロエスレルやモルレーは600円です。もちろん、すべてが大臣並みの高給ではありませんが、「富国強兵」のためとはいえ、いかに高額の出費を覚悟して外国人を雇っていたかがわかります(梅渓昇『お雇い外国人』)。
1880年になると、政府雇いの外国人の数は、最盛期に比べて半減しますが、学校や会社にプライベートで雇われる外国人は、逆に増えていきました。
死の跳躍を越えて
お雇い外国人は、日本の急ピッチの近代化・資本主義化・文明開化をどうみていたのでしょうか。
73年に来日したイギリスの言語学者チェンバレン(1850~1935年)は、はじめ海軍兵学寮の英語教師になり、間もなく浜松藩の老武士から日本の古典を学び始め、86年には東京の帝国大学「日本語学」の教授になります。
チェンバレンは、代表作『日本事物誌』の中で、「薩摩、長州の抜け目のない武士たち」は、攘夷から一転して「欧化」を宣言したが、「これほどすばやく、賢明な
そして西洋の侵略から領土を保全できなかったインドや中国を挙げつつ、日本の「指導的な大名の下にあった知的な武士たちが、この国のヨーロッパ化は生死の問題であると自覚した瞬間から、彼らは改革と進歩の仕事を続けることを決して止めていない」と観察していました。
チェンバレンが「日本の言語学の父」なら、ドイツ人医師のベルツ(1849~1913年)は「日本の近代医学の父」です。
ベルツは76年、日本政府の「お雇い外国人」として横浜に着き、東京医学校(東京大学医学部の前身)で生理学の講義をします。以来、30年近く日本で生活しますが、ベルツは着任して間もなく、日記に日本の国情について以下のように記していました。
「日本国民は、10年にもならぬ前まで、われわれ中世の騎士時代の文化状態にあった。それが、昨日から今日へと一足飛びに、われわれヨーロッパの文化発展に要した五百年たっぷりの期間を飛び越えて、十九世紀の全成果を即座に、しかも一時にわが物にしようとしている」
そのうえで、ベルツは「これは真実、途方もなく大きい文化革命」であり、「このような大跳躍の場合――これはむしろ『死の跳躍』というべきで、その際、日本国民が
【主な参考・引用文献】
▽久米邦武編著『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記2イギリス編』(水澤周訳注、米欧亜回覧の会企画、慶応義塾大学出版会)▽萩原延壽『岩倉使節団 遠い崖9 アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫)▽泉三郎『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社黄金文庫)▽坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)▽土屋喬雄『日本資本主義史上の指導者たち』(岩波新書)▽三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(岩波新書)▽田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽木畑洋一・秋田茂編著『近代イギリスの歴史―16世紀から現代まで』(ミネルヴァ書房)▽君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下)』(中公新書)▽川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史―帝国=コモンウェルスのあゆみ』(有斐閣アルマ)▽村松貞次郎『お雇い外国人(15)建築・土木』(鹿島出版会)▽吉田光邦『お雇い外国人(2)産業』(同)▽梅渓昇『お雇い外国人―明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫)▽チェンバレン『日本事物誌 1』(高梨健吉訳、東洋文庫)▽トク・ベルツ編『ベルツの日記』(菅沼竜太郎訳、岩波文庫)▽佐藤誠三郎『「死の跳躍」を越えて―西洋の衝撃と日本』(千倉書房)