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「世界と日本」史(5 ) - <米欧回覧と文明開化> 津田梅子と大山捨松

이강기 2020. 1. 30. 17:34


<米欧回覧と文明開化>第5回~津田梅子と大山捨松


サムライの娘たち

5人の女子留学生。初めて洋装で撮影(左から永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。1872年、シカゴで)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵
5人の女子留学生。初めて洋装で撮影(左から永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。1872年、シカゴで)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵

 1871(明治4)年12月、日本を出発した岩倉使節団の中の5人の女子留学生の名は、津田梅子(うめこ)(数え8歳)、永井繁子(しげこ)(9歳)、山川捨松(すてまつ)(12歳)、吉益(よします)亮子(りょうこ)(15歳)、上田悌子(ていこ)(16歳)でした。

 アメリカで教育を受けるのが目的で、少女たちのお世話役は、使節団に随行してアメリカに帰国する駐日公使デロングの夫人でした。

 横浜港で、児髷(ちごまげ)に振り袖姿の彼女たちを見送る人々の間からは、こんな声が漏れたそうです。

 「あんな娘さんをアメリカ三界(さんがい)(くんだり)へやるなんて、父親はともかく、母親の心はまるで鬼でしょう」

 最年少の津田梅子の父親は、元佐倉藩士で洋学者の津田仙でした。仙は67(慶応3)年、幕府のアメリカ軍艦購入にからむ交渉でワシントンに派遣された勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)・小野友五郎の随員として渡米した経験がありました。同じ随員の中には福沢諭吉もいました。

 仙は訪米の際、サンフランシスコで断髪し、自分の髪を国元へ送り、異様な頭で帰国しました。このエピソードからも相当な開明派だったことがわかります。

 山川捨松の父・尚江は会津藩家老をつとめた人で、長兄の浩は、幕府のロシア使節団に随行した経験があり、次兄の健次郎は、当時、北海道開拓使から留学生に選ばれて米国に派遣されていました。

 「捨松」は「咲子」から改名したものです。「捨て」たつもりで娘を手放す覚悟と、無事の帰還を「待つ」母の思いが、この名に込められたといわれます。

 永井繁子は、静岡県の士族のところへ養女に出されて永井姓でしたが、実兄は、のちに三井物産社長など三井財閥で活躍する益田孝です。益田は、幕末に遣欧使節の随員となった父親の従者としてヨーロッパを訪問したことがありました。

 吉益亮子の父は東京府士族で外務大録、上田悌子の父は元新潟県士族で、外務中録でした。こうしてみると、5人の父親は、いずれも士族で、海外事情に通じ、明治維新ではいわば「敗者」の側に置かれていました。

女子留学生の発案

黒田清隆(国立国会図書館ウェブサイトから)
黒田清隆(国立国会図書館ウェブサイトから)

 この時代に女子をアメリカに留学させようと考えたのは誰だったのでしょうか。

 提唱者は黒田清隆(1840~1900年)です。政府軍参謀として函館・五稜郭の戦争を平定した黒田は70年、「開拓使」(北海道・樺太の開拓・経営を担当する官庁)の次官になります。

 黒田は北海道の開拓事業を進めるためには、近代技術の導入や日本人の人材教育が必要だと考えました。71年には、7人の留学生とともに訪米してグラント米大統領と会談し、米農務局長・ケプロンの招聘(しょうへい)に成功しました。

 この半年間にわたる訪米で、アメリカ女性の社会的地位の高さや女子教育の進展に刺激を受けた黒田は、帰国後、女子留学の意見書を政府に提出し、開拓使から派遣する女子の募集を始めました。

 明治初期の女子教育は、上流の子女は家庭で、一般家庭ではわずかの子女が寺子屋などで読み書きを学ぶ程度でした。政府が学制を公布して女子教育を制度化し、初めて女学校も開校するなど、女子教育が緒に就くのは72年のことです。

 黒田には、「教育を受けた女性からは、賢い子が育つので、次代のために女子を海外に送り出そう」という発想が強かったようですが、当時の少女の外国留学自体、きわめて大胆な試みでした。

渡米に先立ち、皇后との会見のため参内した日本初の女子留学生(左から上田悌子、永井繁子、山川捨松、津田梅子、吉益亮子)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵
渡米に先立ち、皇后との会見のため参内した日本初の女子留学生(左から上田悌子、永井繁子、山川捨松、津田梅子、吉益亮子)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵

 留学期間は10年、政府から年間800~1000ドル(当時1ドルは1円)が支給されることになっていました。東京帝国大学の授業料(79年)が年額12円という時代ですので、大変な厚遇といえました。

 ところが、当初、応募者は全くありませんでした。追加募集の末、津田ら5人だけが応募し、全員が合格しました。

 彼女たちは出発前、明治天皇の美子(はるこ)皇后から皇居に呼ばれ、女子の「洋学修業の志誠」は殊勝なことであり、帰国のうえは「婦女の模範」になるように、と書かれた沙汰書を下されました。

アメリカの娘として

 72年2月、ワシントン入りした5人のうち、吉益と上田の年長の2人は、健康がすぐれず、留学生活を断念して帰国することになります。

津田梅子(ワシントンで)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵
津田梅子(ワシントンで)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵

 津田梅子(1864~1929年)は、ワシントン郊外ジョージタウンに住む日本弁務使館(公使館)書記官・ランマンの家にあずけられます。はじめは1年という約束でしたが、結局10年の長い年月を、知的で生活に余裕のあるランマン夫妻に、我が子同様愛されて過ごすことになります。

 梅子は、そこから私立小学校に通い、73年7月にはキリスト教の洗礼を受けます。78年夏からは、女学校のアーチャー・インスティチュートで学びました。

 一方、大山捨松と永井繁子は、72年10月、米コネチカット州ニューヘイブンのベーコン牧師の家に引き取られます。ベーコンは奴隷解放の運動家としても知られた人物でした。繁子は、間もなく別の牧師の家に移ります。

 75年9月、捨松は男女共学の公立高校に入学し、3年後には名門女子大学として知られるバッサーカレッジに合格して寮生活を送ります。繁子も、音楽専攻特別生として同カレッジに入学しました。

 捨松の成績はトップクラスで、在学中、校内誌に「日本の明治維新とその政治的背景」と題する記事を書く一方、卒業時には、イギリスの対日外交政策を批判する演説をしています。

 繁子は81年に一足先に帰国し、バッサー在学中に知り合った、アナポリス海軍兵学校の留学生・瓜生(うりゅう)外吉(そときち)(のちの海軍大将)と結婚し、東京音楽学校でピアノを教えます。

 梅子と捨松は、いずれも留学期間を1年間延長して、梅子は高校卒の資格を、捨松は学士号をそれぞれとります。捨松は、米国の大学の学位をとったアジア人初の女性といわれます。梅子と捨松は、一緒に帰国の途につき、82年11月、横浜港に着きました。

 アメリカの娘として育った梅子も捨松も、まる11年ぶりの日本とあって、もはや日本語がわかりませんでした。故国は異国になり、まるで異邦人のようでした。

 2人は、カルチャーショックに見舞われながら、日本語の読み書きを学習しますが、「長い、含みのある、意味のはっきりしない、理解し難いセンテンス」(梅子)に大変、苦しみます。

 加えて2人を困惑させたのは、仕事が見つからないことでした。政府は、彼女たちを鳴り物入りで国費留学生として送り出しながら、帰国後の受け入れ態勢をとっていませんでした。

津田塾大学を創立

 83年11月、梅子は、岩倉使節団のメンバーとして同じ船で渡米した参議・伊藤博文に再会し、伊藤家の家庭教師をします。そのあと華族女学校の開設と同時に英語教師となることができました。

 しかし、梅子はそれに満足することはできませんでした。89年には再び渡米してブリンマー・カレッジに入学し、生物学を専攻します。ここで書いた論文「カエルの卵の適応性」は、日本女性として初の科学論文です。

 92年に帰国した梅子は、再び華族女学校で教鞭(きょうべん)をとり、98年には女子高等師範学校教授を兼任します。そして在米中に抱いた夢である、日本の女子高等教育向上のための私塾の創設に動きます。

女子英学塾の最初の校舎(1901年)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵
女子英学塾の最初の校舎(1901年)=津田塾大学津田梅子資料室所蔵

 梅子は、アメリカ留学で捨松がお世話になったベーコン牧師の末娘、アリスの協力をあおぐため、捨松とともにアリスの再度の来日を懇請します。アリスは88年から1年間、華族女学校の講師をしていました。

 1900年7月、勤務していた両校教授のポストを辞した梅子は、「女子英学塾」(津田塾大学の前身)設立の認可をとると、塾長に就任。捨松が顧問に就き、教師陣にはアリス・ベーコンらを迎えました。

 梅子は9月、10人の生徒を前に開塾のあいさつをし、「将来英語教師の免許状を得ようと望む人々に、確かな指導を与えることが塾の目的の一つ」としたうえで、英語だけでなく、幅広い知識と教養をもち、しとやかで謙虚な「(まっ)たき婦人、すなわち allround(オールラウンド) women(ウーマン)」を目ざして学ぶことを強調しました。

 梅子は、女子のための最高学府の官位を返上した直後、アメリカの友人に対し、手紙で「とうとう私は“自由”になったのよ……保守的なものや古いしきたりとは決別し、一平民として、やりたいことをやりたいようにやるつもりです」と書いています(ジャニス・P・ニムラ『少女たちの明治維新―ふたつの文化を生きた30年』)。

 少女時代から背負わされてきた重い荷を降ろした解放感が伝わって来ます。岩倉使節団の一員として訪米してから30年近い歳月が流れていました。

鹿鳴館の貴婦人

大山捨松(国立国会図書館ウェブサイトから)
大山捨松(国立国会図書館ウェブサイトから)

 山川捨松(1860~1919年)は、戊辰(ぼしん)戦争の会津攻防戦のとき、わずか8歳の身で、家族とともに鶴ヶ城に籠城(ろうじょう)しました。与えられた仕事は「(くら)から鉛の玉を運びだす」ことでした。官軍の砲弾によって義姉は無残な死に方をし、自分も軽傷を負いました。

 敗戦後は、会津若松を去って移封先の青森・斗南(となみ)地方に送られ、極寒不毛の地で野良仕事を手伝ったりしています。

 捨松は83年11月8日、陸軍(きょう)大山(おおやま)(いわお)(1842~1916年)と結婚しました。

 旧薩摩藩で西郷隆盛の従弟(いとこ)にあたる大山は、戊辰戦争には砲兵隊長として各地を転戦し、会津の鶴ヶ城攻防戦に参加していました。

 城に砲弾を撃ち込んでいた宿敵・薩摩の軍人からの結婚申し入れを、山川家は拒絶します。しかし、西郷の弟で農商務卿だった西郷従道が間に入って説得し、山川家も捨松の意思次第というところまで折れます。

大山巌(国立国会図書館ウェブサイトから)
大山巌(国立国会図書館ウェブサイトから)

 大山は70年、ヨーロッパを訪問して普仏戦争を視察し、いったん帰国後、今度は陸軍少将として渡欧し、フランスで軍政や砲術を研究して74年に帰国しました。80年には陸軍卿に就任します。

 大山は当時、24歳の捨松より18も年上で、妻を亡くして3人の娘がいました。大山はパーティーの席上、外国語に堪能ですらりとした美人の捨松を見そめたようです。

 当時、捨松は、宿願の学校を作る夢をあきらめ、結婚を考え始めていました。大山からの結婚申し込みに関して、捨松は、アリス・ベーコンあての手紙に、仕事か結婚か、揺れ動く心を(つづ)っています。

 「私はお国のために結婚するのではありません。私はこの結婚を日本のためばかりでなく、自分自身のためにも真剣に考えています。お国のために役立つからといって、自分自身がみじめになるのはいやですが、自分も幸せになれ、その上お国のためにも役に立つ道もあるはずだと思います」(久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』)

鹿鳴館(国立国会図書館ウェブサイトから)
鹿鳴館(国立国会図書館ウェブサイトから)

 大山夫妻は、条約改正を悲願とする明治政府が開設した洋風2階建ての社交場「鹿鳴館(ろくめいかん)」で、結婚披露の晩餐会を開きました。捨松はアメリカ仕込みの接待術をみせ、社交界に本格デビューし、「鹿鳴館の花」とうたわれる存在になるのです。

官費留学生が急増

 ヨッロッパの先進文化の摂取(せっしゅ)に躍起だった明治新政府は、徳川幕府と同様、海外留学に熱意をみせ、これを推進しました。

 例えば、欧米の軍事・兵制・兵器研究などのため、山県有朋や西郷従道、大山巌、品川弥二郎らを欧米に派遣したのが好例です。70年には、陸軍兵学寮の生徒10人をフランスに、海軍兵学寮でも、4人をアメリカへ、12人をイギリスにそれぞれ派遣しています。

 文部省をはじめ、開拓使、大蔵省、工部省も積極的に留学生を送り出す一方、71年には、華族に対して勅諭が出され、社会的指導層にふさわしく、文明開化の役割を果たすようにと、留学・海外視察を推奨しました。

 こうして70年末から71年の前半までの間、留学生が急増し、その数は350~360人と、この時期のピークに達しました。留学先はアメリカが最多で、これにイギリス、さらにドイツ、フランスが続きました。

 しかし、留学生の急増は、質的なレベルの低下を招き、一部の雄藩出身者に(かたよ)る人選なども問題化します。とりわけ、官費留学生の費用の増大が国の財政を圧迫し、大蔵省などが留学生の減員と整理を求めます(石附実『近代日本の海外留学史』)。

 こうして岩倉使節団は、在外留学生の実態調査を行うことを委託されました。使節団の副使・伊藤博文は、実態調査の結果を受け、ロンドンから留守政府にあてて、このままでは「独り人才(じんさい)を養育するを得ざるのみならず、巨万の財用(ざいよう)を捨て」ることになるので、留学生の「修学の方法を一洗」する必要があると進言しました。

【主な参考・引用文献】

▽久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』(中央公論社)▽吉川利一『津田梅子』(中公文庫)▽大庭みな子『津田梅子』(朝日文芸文庫)▽ジャニス・P・ニムラ『少女たちの明治維新―ふたつの文化を生きた30年』(訳・志村昌子、藪本多恵子 原書房)▽石附実『近代日本の海外留学史』(中公文庫)▽泉三郎『岩倉使節団』(祥伝社黄金文庫)▽田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽井黒弥太郎『黒田清隆』(吉川弘文館)

プロフィル
浅海 伸夫( あさうみ・のぶお
 1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。