旧佐賀藩の系譜
岩倉使節団の特命全権大使になった岩倉具視外務卿(外務大臣)の後任は、
副島は旧肥前佐賀藩士。佐賀藩は、武士道を論じた『
しかし、続く上野戦争や会津の攻防戦では、佐賀藩が保有していた近代兵器が威力を発揮し、その軍事的貢献によって、薩長土肥の一角に食い込むことができました。
佐賀藩は鎖国期、世界への窓口だった長崎港の警備を担当していました。直正は、イギリス軍艦フェートン号による長崎港乱入事件(1808年)を教訓に、国防強化につとめ、
やがて同藩は、「天下の
![副島種臣の書(国立国会図書館ウェブサイトから)](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50055-1.jpg?type=large)
同時に直正は、人材育成にも目を配り、同藩からは、副島をはじめ、大隈重信、大木喬任、江藤新平、さらに岩倉使節団の副使だった山口尚芳、『米欧回覧実記』を著した久米邦武らを輩出します。久米は『鍋島直正公伝』(全7巻)という著作も残しています。
副島は、漢学、国学、洋学の素養があり、能筆としても知られていました。「王政復古の大号令」の直後、岩倉具視、西郷隆盛らとともに新政府の参与に命じられ、政府組織を定めた「政体書」などを起草し、69年には要職の参議に就任します。
そして2年後、外務卿として
揺籃期の明治外交
岩倉使節団が訪れる前の欧米情勢は、目まぐるしく動いていました。戦争だけみても、53年からのクリミア戦争に始まり、アメリカの南北戦争、プロイセン=オーストリア戦争、プロイセン=フランス戦争などが続き、77~78年にはロシア=トルコ戦争が起きます。この間、イタリア王国(61年)、ドイツ帝国(71年)がそれぞれ誕生しました。
日本史を重ね合わせてみますと、ペリーが来航したのは53年、日米修好通商条約の締結が58年、明治改元は68年のことです。日本列島には、南からイギリス、フランスが北上し、北からはロシアが南下し、東からはアメリカの波が押し寄せ、西には強国の
もちろん、最大の外交テーマは、多数の欧米諸国と結ばされた不平等条約の改正でした。岩倉使節団はアメリカ・ヨーロッパに、そのための環境整備に出かけていったのです。
これに対して、留守政府は、江戸時代に貴重な対外窓口として機能していた
ロシアとの間では樺太(サハリン)の帰属問題でもめていました。樺太は、日露和親条約(1855年)で国境を画定できず、その後も日露両属のまま、南下を続けるロシア人による、日本人漁民に対する暴行や殺人、放火事件などが絶えませんでした。
![ニコライ(国立国会図書館ウェブサイトから)](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50048-1.jpg?type=large)
これを懸念した日本政府は、参議だった副島をロシア沿海州のポシエットに派遣して事態打開を図ろうとしますが、訪露は実現せず、結局、72年5月に着任したロシア初の駐日代理公使・ビュツオフと、外務卿に就いた副島との間で交渉が始まりました。
このころ、副島は、布教の本拠地を函館から東京・神田駿河台に移し、やがて同地に「ニコライ堂」を建設する、ロシアの宣教師・ニコライ(1836~1912年)とも交流を深めるなど、別ルートからも解決につとめていたようです。しかし、日本側が提起した樺太買収案は、ロシア側の受け入れるところとならず、決着しませんでした。
人道性アピール―マリア・ルス号事件
![荷物を運ぶクーリー(1895年に中国で撮影、米国議会図書館蔵)](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50047-1.jpg?type=large)
72年7月9日、日本を舞台に国際的な事件が発生しました。
悪天のため横浜に寄港したペルーの帆船「マリア・ルス号」から、清国人
イギリスの駐日代理公使・ワトソンは、副島に対し、苦力虐待事件を究明するよう求め、イギリスとして全面協力を約束しました。8月4日、神奈川県
各国領事立ち会いの下、審理は速やかに進められ、大江裁判長は8月30日、船長については、「罰は
船長が苦力を相手取って起こした移民契約不履行の訴訟では、9月27日、「契約は非人道的であり、無効である」との判断を示しました。231人の苦力たちは解放され、清国に引き渡されます。
![大江卓(国立国会図書館ウェブサイトから)](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50050-1.jpg?type=large)
副島は、裁判記録を英文の冊子にして、日本の正当性を各国にアピールしました。
この事件の判決は、「日本の法権の独立を主張した点」や、「明治政府の人道的な立場を鮮明にした点」など、「日本の対外関係史上、画期的」だった(萩原延壽『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄10』)と高く評価されています。
ペルーの全権公使は73年3月31日、日本政府に事件の損害賠償を要求します。日本側は拒否し、裁決をロシア皇帝のアレクサンドル2世に委ねることになりました。75年5月、皇帝は、日本に賠償責任はない旨を裁定し、事件は落着します。
日本政府は国内の裁判で、ペルー側の弁護士から、
このため、江藤新平が率いる司法省は72年11月、人身売買の禁止と娼妓の年季奉公禁止などを早々に命じました。
副島の清国訪問
副島は、近隣のアジア外交にも取り組みます。
![同治帝](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50052-1.jpg?type=large)
とくに台湾、琉球、朝鮮をめぐる問題は、いずれも、清国と深いかかわりがありました。
政府は73(明治6)年2月28日、特命全権大使として副島を清国に派遣することを決定します。
その公式の任務は、
当時の清朝は、第2次アヘン戦争後に漢人官僚の
日清修好条規は71年9月、
条約は、西洋諸国との間で不平等条約を結ばざるをえなかった日清両国が、相互に開港して、領事裁判権を認め合う「対等」なものでした。副島は73年4月30日、天津で李鴻章との間で批准書を交換します。
「跪拝の礼」拒絶
![清の乾隆帝に謁見する英外交官マカートニー。三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を求められるが、拒んだ(ジェームズ・ギルレイ、公益財団法人東洋文庫蔵)](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50056-1.jpg?type=large)
73年5月に北京入りした副島一行は、同治帝との謁見にあたっては、清朝の慣習に従い、
副島は、国際慣例に反するとして拒絶し、立礼を主張します。
さらに、特命全権大使である自分は、在清国外交団よりも高い立場にあるとして、同じく謁見を申し入れていたロシア、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ各国とは別扱いを求めました。
清朝側と何度も折衝が重ねられた末、6月29日、副島は、同治帝と「単独」で会見します。跪拝はせずに、3回立ち止まって敬礼(おじぎ)をして中央に進み、台上に国書を提出。一礼してお祝いを述べ、同治帝の言葉を聞いてから退出する際も、3回敬礼をしました。
これは中国では、まったく新しい謁見の方式でした。5か国の公使は、このあと同様に謁見します。跪拝の礼は受け入れられないとして謁見を先延ばししてきた各国とも、“副島方式”を歓迎し、公使らは副島を称賛しました。
琉球漂流民殺害事件―台湾出兵論
副島の清国訪問の真の目的は、台湾で発生した琉球漂流民殺害事件について、清朝の加害責任を追及し、犯人の処罰や補償金などを要求することでした。さらに、日本との国交正常化を拒み続けている朝鮮をめぐり、清朝の意図を確かめることも求められていました。
![](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50057-1.jpg?type=large)
琉球漂流民殺害事件とは、71年11月末、琉球(沖縄)の
辛うじて逃れた12人は、清国に保護され、翌72年7月に那覇に帰還しました。
この事件が、日本外務省に報告されたのは、同年5月末~6月初めの頃。9月、鹿児島県参事・大山
これが「台湾出兵論」の初発です。
鹿児島の
その頃の台湾は、清朝の統治下にありました。
日本人女性を母に持つ
その間、台湾への漢人移民の増加により、先住民は未開地に追いやられ、治安も乱れるようになりました。清朝は19世紀半ば、アメリカ、イギリス、フランスなど欧米列強の圧力を受けて、台湾の四つの港を開港しました。
副島外務卿は、アメリカ公使・デロングや
72年11月に作成された外務省案は、「問罪」出兵にとどまらず、台湾南東部(先住民地域)の領有を清朝に要求し、これが拒否された時は、清国南岸と台湾近海に軍艦を派遣して台湾を占領するというところまでエスカレートします(勝田政治『明治国家と万国対峙』)。
しかし、こうした出兵論に対しては、大蔵
日清両属の琉球―日本帰属化
![尚泰(国立国会図書館ウェブサイトから)](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50049-1.jpg?type=large)
明治天皇は72年10月16日、琉球国王・
副島外務卿が宮中でこれを読み上げ、尚泰の名代として参内した正使の
尚泰は、66年には清朝の使節を迎えて
その一方で、琉球は、江戸時代からずっと薩摩藩の統治下にありました。1609年、薩摩藩主の
薩摩藩は琉球を独立王国のまま存置し、中国との貿易を継続させます。薩摩藩が侵攻した主たる狙いは、朝貢貿易の利益を奪うことにありました。同藩は那覇に
また、奄美大島をはじめ
![作家の大城立裕氏](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20190124-OYT8I50051-1.jpg?type=large)
芥川賞作家の
幕藩体制が崩壊した結果、新政府は、こうした日本―琉球―清朝の関係見直しを迫られました。廃藩置県翌年の「琉球藩」の設置は、まずは鹿児島県と切り離して日本への属国化を明確にしようとしたのです。これが「琉球処分」の第1段階になりました。
日本政府は、琉球王国が幕末にアメリカ、フランス、オランダと結んだ条約の正文を出すよう琉球藩に命じ、外交権も掌握しました。ただし、これらによって日清両属の状態が解消されたわけではありませんでした。
清朝「台湾は『化外』」
副島は清国訪問に出発する前、同郷の参議・大隈重信にあてた手紙で、こんな趣旨のことを書いていました。
<台湾全島の半分だけなら「舌上(外交交渉)」で獲得でき、半分を得れば、「四、五年で全島も舌上で手に入れ得るので、「このたびの機会失うべからず」>
副島の胸の内には、台湾領有論が膨らんでいました。政府内には積極派の副島の派遣を危ぶむ声も出ていました。
副島は北京滞在中の73年6月下旬、外務
柳原が朝鮮と清朝の関係について質問すると、清朝側は、「朝鮮は属国だけれども、その内政・外交問題については関与しない」と回答しました。これによって副島は、仮に日本が朝鮮を攻撃しても、中国は介入しないだろうとの感触を得たようです。
琉球漂流民殺害事件の責任追及はどうなったのでしょうか。
清朝側は、「殺されたのは琉球人であって日本人ではない。琉球は我が藩属だ」と突っぱねました。これに対して柳原は、「琉球は薩摩の属国だった。日本臣民たる琉球人は日本政府の保護下にある」と反論しました。
さらに柳原は台湾の「生蕃(先住民)」を処罰したのかと
しかし、これらは、すべて口頭のやりとりにとどまり、確認文書もありませんでした。
これには「
7月27日、副島は帰国しました。すでに西郷隆盛が台湾出兵に言及するなど、出兵への気運が高まっていました。副島は8月7日、イギリス公使のパークスに、「1か月後、台湾南端に1隻ないし数隻の軍艦を派遣する予定である」と説明します。
ところが、その直後、朝鮮をめぐる「征韓論争」が政府内で噴きあげたことから、台湾出兵は、いったん棚上げされます。
琉球はどうなるのか
柳原外務大丞と清国外務省のやりとりでも、琉球の地位については、まったく意見が一致しませんでした。8月11日、琉球藩の
与那原は、日清両属の「やむなき由来」を説明したうえで、琉球は小国であり、制度の変革は民心を動揺させるので、「従来の情態を維持したい」と述べました。これに対して、副島は「外国との和約・交戦等のほか、国内の政治はすべて藩王に一任し、国体制度等は従来の通りたるべき事」と語りました(『尚泰侯実録』)。
琉球側の求めに応じて、副島は覚書を交付しました。そこには、朝廷への「
これを琉球側が藩の安泰を「保証」するものと受け止めたとしても無理はありません。しかし、副島は間もなく「征韓論政変」で外務卿を辞任し、この「保証」も日本政府によって覆されることになります。
【主な参考・引用文献】
▽森田朋子・齋藤洋子『佐賀偉人伝12 副島種臣』(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)▽安岡昭男『副島種臣』(吉川弘文館)▽杉谷昭『鍋島閑叟―蘭癖・佐賀藩主の幕末』(中公新書)▽勝田政治『明治国家と万国対峙―近代日本の形成』(角川選書)▽大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館)▽毛利敏彦『幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点』(中公新書)▽同『明治六年政変』(中公新書)▽同『台湾出兵―大日本帝国の開幕劇』(中公新書)▽萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄10 大分裂』(朝日文庫)▽戴國●(「火へん」に「軍」)『台湾―人間・歴史・心性』(岩波新書)▽ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(新潮文庫)▽大城立裕『小説 琉球処分(上)(下)』(講談社文庫)▽高良倉吉『琉球王国』(岩波新書)▽宮城栄昌『沖縄の歴史』(琉球新報社)▽児玉幸多・北島正元編『第二期 物語藩史 第七巻』(人物往来社)▽吉澤誠一郎『清朝と近代世界 19世紀』(岩波新書)▽加藤徹『西太后』(中公新書)▽東恩納寛惇『尚泰侯実録』(国会図書館デジタルコレクション)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽波多野善大編『中国文明の歴史10 東アジアの開国』(同)
![](https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/prof_culture_history01.jpg?type=prof)