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 現在、世界中で多くの人たちが、自国から他国へ生活の場を移そうとしています。この現象の原因が、世界各地の政情不安定化にあることは明白ですが、同時にグローバリゼーションの進展とともに人々の移動がたやすくなり、より高い賃金を求めて移動することが当たり前のようになったこともあります。さらに労働者人口が増えない先進国が、労働力不足を賃金の安い途上国の人々で補おうとしていることもこれに拍車をかけています。


 そして、生命の安全に不安を持つため他国に逃れる人を「難民」、生活のために他国に移住する人を「移民」と呼びます。


 現在、移民や難民が特に押し寄せているのがヨーロッパ諸国です。もちろんそれは、比較的ヨーロッパに近い地域に、政情不安な地域や途上国が多いという理由があります。


 ただ、ヨーロッパに移民が集まる現象には、それとは別の歴史的理由もあります。19世紀のヨーロッパ諸国は世界に植民地を持つ「帝国」を形成しており、旧植民地、さらにはヨーロッパが進出した「準植民地」とでも呼ぶべき地域との関係がまだまだ強く、そこからかつての「宗主国」であるヨーロッパの国に移り住もうという人々が多いことも理由なのです。

帝国主義

 19世紀、ヨーロッパ諸国は競うようにして植民地を拡大しました。アジアやアフリカの多くの地域が、ヨーロッパ諸国、とくにイギリスの植民地になります。


 帝国主義時代とは、ヨーロッパ(さらにはアメリカ)が、世界を収奪した時代と言えます。その過程では、ヨーロッパの工業製品が、ヨーロッパの船、とりわけイギリスの蒸気船によって世界中に輸送されていきました。そしてそれとは逆に、ヨーロッパに第一次産品を供給したのは、アジアやアフリカの国々です。このようなシステムのもとで、ヨーロッパが世界を支配したのが、19世紀から第一次大戦勃発までの時代の特徴と言えます。


 このような時代の中、ヨーロッパは、自分たちに都合のいいようにアジアやアフリカの地に国境線を引きました。その土地に住んでいる民族、あるいはとなり合って生活する民族同士の関係はあまり考慮されませんでした。ただただ欧米列強にとって都合がいいように、世界中にたくさんの国境線が定められたのです。

 このことが、今なお、国際社会に大きな影を落としているのです。


ヨーロッパに押し寄せる難民はどこからくるのか

「移民問題」は、現在のヨーロッパが抱える最大の問題の一つです。その起源は、ヨーロッパが進めた「帝国主義」にあります。帝国主義の負の遺産が、ヨーロッパのみならず、世界全体を苦しめているのです。


 ヨーロッパへの難民数は、2014年が20万人強、2015年が100万人強、2016年が40万人弱、2017年が20万人弱となっており、この数字を見ただけでも、かなりの難民がヨーロッパに流入していることがわかります。


 難民は、陸路と海路でヨーロッパに到達しています。たとえば陸路では、トルコを経由するルートがありますし、カイロではアフリカから多くの難民がヨーロッパを目指しています。


 ヨーロッパでの受け入れ先としては、ドイツが最大で、次いでハンガリー、フランス、イタリア、スウェーデンが名を連ねます。難民の出身国としては、シリア、コソボ、アフガニスタン、アルバニア、イラク、エリトリア(東アフリカ)、セルビア、パキスタンと続いています。


 これらの難民の出現が、かつての帝国主義とどう結びついているのか。まずは、コソボ、アルバニア、セルビアなどの移民について見てみましょう。

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バルカン半島に見る帝国主義政策の影響

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアは南下政策により黒海沿岸、さらには東地中海から中東を目指し、さらにカフカス地方からイラン、中央アジアのトルキスタン地方、アフガニスタン、インド方面にまで進出を試みました。しかし、こうした進出策は、イギリスの利害と激しく対立しました。


 イギリスは典型的な帝国主義政策である「3C政策」を掲げていました。それは、南アフリカのケープタウン(Cape Town)、エジプトのカイロ(Cairo)、インドのカルカッタ(Calcutta)を鉄道で結ぼうとする政策です。ところが、ケープタウンからカイロに至る地域はフランスの利害と、カイロからカルカッタへと至るルートはベルリン(Berlin)、ビザンティウム(Byzantium=イスタンブル)、バグダード(Bagdad)を鉄道で結ぼうというドイツの3B政策と衝突することになりました。


 このように、バルカン半島、さらには中東から中央アジアにかけての地域は、帝国主義に染まったヨーロッパ各国の利害が複雑に絡み合い、火花を散らす舞台となっていました。


 そんな中で起きたのが、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が訪問先のサラエボで、セルビア人青年によって暗殺されるというサラエボ事件です(1914年)。この事件が、第一次世界大戦の勃発に繋がります。


 セルビアがその一角を占めるバルカン半島はもともとビザンツ帝国、その次にはオスマン帝国によって支配されていた地域です。このような巨大な帝国が支配していたときには、バルカン半島の民族問題は目立たぬ問題でした。


 しかし、オスマン帝国が衰退すると、スラヴ系諸民族の一体性を強調する「パン・スラブ主義」を唱えるロシアの支援によって、セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアが1912年10月にバルカン同盟を結成、オスマン帝国に宣戦することになります。ここに、第1次バルカン戦争の幕が切って落とされました。


 これに対して、落ちぶれつつあったオスマン帝国は、「パン・ゲルマン主義」を掲げるオーストリア=ハンガリー帝国の援助を受けます。バルカン同盟の背後にはロシア、オーストリア=ハンガリー帝国のバックにはドイツが控えているのは明白で、両陣営は激しくぶつかり、第1次バルカン戦争が起こります。この戦争自体はバルカン同盟側の勝利に終わったものの、戦後処理で折り合わず、1913年にブルガリアとの間で第2次バルカン戦争が勃発することになります。


 この結果、アルバニア人居住区のコソボ地方は、セルビア及びモンテネグロによって分割されることになったのです。これが、のちに多数の難民を出すことになった原因となっています。ここに、今日までつながるバルカン半島の民族問題、さらには西ヨーロッパへの難民問題の直接的原因が見出されるのです。


ユーゴ内戦

 もともとバルカン半島は、多民族が入り混じって居住していた地域で、統治するのがきわめて難しい場所でした。


 第二次世界大戦後に、ボスニアとヘルツェゴビナがある程度平和な状態でいられたのは、カリスマ的な指導者チトー(1892〜1980)の強力なリーダーシップのもと、ユーゴスラビア共和国に組み入れられていたからです。


 しかし、チトー亡き後、6つの共和国から成り立っていた多民族国家のユーゴスラビアでは民族紛争が再燃することになります。


 ユーゴスラビアでは、1990年に行われた選挙の結果、連邦の維持が支持されず、翌年6月、スロベニアとクロアチアが独立を宣言し、これをきっかけとしてユーゴスラビア内戦が勃発します。


 同年11月にはマケドニアが、そして翌92年3月のボスニア=ヘルツェゴビナが独立を宣言します。ボスニア=ヘルツェゴビナは、独立を求めるムスリム人勢力とクロアチア人勢力がいて、それに反対するセルビア人がいるという、特に複雑な民族構成を持った地域でした。


 ボスニア=ヘルツェゴビナの独立宣言により、ボスニア内戦(ボスニア=ヘルツェゴビナ紛争)が始まり、旧ユーゴスラビアは無秩序状態に陥ってしまいます。


 この内戦は、NATOによるセルビア人勢力への空爆がなされるなど、大規模なものに発展しました。そのため内戦による死者は20万人、難民と避難民の合計は200万人に達したとも言われます。内戦は1995年12月、パリで正式に講和条約が結ばれるまで続いたのです。


民族問題の縮図・コソボ問題

 ユーゴスラビア解体によって次々と国家が独立する中で、セルビア内のコソボ地区の自治要求運動も強まっていきました。


 コソボの人口は、現在約180万人と言われます。そのうちセルビア人は13%程度で、アルバニア人が大多数を占めています。ところが、コソボ地区はセルビア王国発祥の地という大事な土地でもあります。そのセルビア王国は、オスマン帝国に滅ぼされ、イスラム教徒であるアルバニア人が多数住むようになったという経緯がありました。セルビア人とアルバニア人にはこのような対立構造がありました。


 アルバニア人を優遇したチトーが亡くなると、コソボのアルバニア人から不満が噴出します。1981年、コソボでの大規模な暴動が発生します。


 コソボ問題は、セルビアのミロシェヴィッチ大統領が、1998年にセルビア治安部隊を派遣し、コソボ解放軍を撃破しようとしたことで再び表面化します。


 紛争終結後、コソボは国際連合の監督下に置かれたが、その地位は2008年まで未確定のまま続きました。ところが2009年、セルビアがヨーロッパ連合への加盟を申請した際、コソボとの関係改善が条件だったため、セルビアはコソボと関係改善に向けた合意をします。


 ところがセルビアの憲法では、コソボはいまだセルビアの一地方であり、独立した存在として規定していませんでした。現在では、コソボの独立を承認する国のほうが多いのですが、承認しない国も少なくなく、それが大きな問題を残しています。


 また、アルバニア系住民がセルビア人を襲撃する事件も相変わらず頻発しています。アルバニアは半数以上がムスリムと言われており、その点で他の旧ユーゴスラビアに属する国々とは大きく異なります。またアドリア海に面しており、海上ルートで簡単にイタリアに渡れます。アルバニア難民が多いのは、そのためです。


 ただ彼らが到着しても、イタリア政府は彼らを入国させませんでした。これも国際的に、大きな問題になりました。


中東の難民たち

 中東では、シリアもやはり、長期にわたりオスマン帝国の支配下にありました。


 第一次世界大戦が終結し、オスマンの支配が弱まると、ダマスクスにアラブ政府を樹立したファイサル1世が、1919年のパリ講和会議に出席し、アラブ国家の承認を求めるも、受け入れられませんでした。


 1920年にはアラブ・シリア国民会議に推されてシリア・アラブ王国の国王となったファイサル1世でしたが、侵攻してきたフランス軍により、ダマスクスから追い出されてしまいます。こうしてシリア・アラブ王国のうち、シリアはフランスの、ヨルダンとバレスチナはイギリスの委任統治領になってしまいます。


 そしてフランスは、シリアの多数派であるスンナ派のムスリム勢力を抑えるため、シーア派やキリスト教徒の宗教対立を利用しました。この宗教的対立から生まれたのが数々の内戦です。この構造が現在まで続き、多数の難民を生み出し続けているわけです。すべてはフランスの所業に原因があったとすることも可能なのです。


 実際、2011年、アラブ世界で民主化を求める「アラブの春」が起き、この機運がシリアにも飛び火します。これによりシリア各地で発生した反政府デモに、アサド政権が弾圧を加えたため、シリアは内戦状態になります。そこに、反体制派・ISの成立、ロシアの介入などもあり内戦は泥沼化。死者は30万人以上、全人口2240万人のうち500万人以上が難民となってしまったのでした。


 また現在まで続くイラクの混乱は、むろんフセイン政権による統治が直接の原因ですが、さらに源流まで遡れば、1921年にイギリスがイラクと関係の深かったクウェートを分離し、ファイサル1世を国王としてイラク王国を建国させたことに行き着きます。


 少し説明しましょう。


 それ以前にイギリスは、ペルシア湾岸に進出することを容易にするため、1899年、オスマン帝国の支配下にあったクウェートを保護領にしました。第一次世界大戦でオスマン朝が敗北すると、クウェートとイラクは、ともにイギリスの植民地になります。


 さきほど、フランス軍が、シリア・アラブ王国のファサイル1世をダマスクスから追い出したことに触れましたが、ファサイル1世はこのとき、イギリスに亡命し、その保護下にありました。


 イギリスは、オスマン帝国衰退の中、中東での支配を強めますが、イギリスに対する反乱が相次ぎ、統治は困難な状況に陥ります。そこでイギリスは、イギリスを支持してくれる現地のリーダーに領土を渡すことにします。そこで白羽の矢を立てられた一人が、先のファサイル1世でした。


 1921年、イギリスはファサイル1世を、新しく作った「イラク王国」の国王にさせました。しかし、このようなイギリスの中東政策はかなり乱暴に進められ、国境線は現地の民族や宗教の実情をあまり考慮されず、恣意的に決められてしまいました。これが後に中東紛争の大きな火種として残ります。


 そのイラクは、1932年にイギリスから独立するのですが、この時イラクはクウェートの分離を承認しませんでした。そのためイラク-クウェート間の国境は確定しませんでした。イラクが、クウェートは自国の一部だという主張をしたからです。


 そのため、1961年にクウェートがイギリスの保護領から独立すると、イラクは「クウェートはイラクの一部である」と宣言したのでした。イラクとクウェートの間には、そのような関係があったのです。


湾岸戦争のきっかけとなった1990年のフセインの武力によるクウェート侵攻は、決して許されるものではありませんが、イラク側の根底には、こうした認識があったのも、また事実なのです。


 もしもイギリスが、イラクとクウェートにもっと慎重に接していたならば、その後の中東での紛争はもっと少なくなり、湾岸戦争も起きなかったかもしれません。であれば、湾岸戦争をきっかけとした難民の発生もありませんでした。


いまだに残る帝国主義の「負の遺産」

 帝国主義時代、イギリスを筆頭に、フランス、ドイツ、スペイン、ポルトガル、オランダなどのヨーロッパ諸国が世界中に植民地を持っていました


 そうした状況下でグローバル化が進展し、本国と植民地との関係が政治的にも経済的にも緊密になると、必然的に双方向で人々の移動は激しくなります。植民地を支配するために、本国から植民地へと人々が移動しただけではなく、本国は安価な労働力を獲得するために、被植民地人を使用したからです。


 それが大規模に起こったのが世界最大の植民地帝国であったイギリスです。イギリスには、植民地から多数の人々が押し寄せました。現在イギリスにさまざまな人種の人たちが暮らしているのはそのためです。むろんイギリスよりも規模は小さいですが、同様のことは他のヨーロッパ諸国にも当てはまります。


 ヨーロッパが築き上げてきたシステムとは、必然的に多くの移民を外から受け入れるシステムだったのです。


 現在、ヨーロッパ諸国で構成されるEUは、経済的には単一市場を特徴とします。加盟国間を通常はパスポートがなくともスムースに移動することができるのですが、それはまた、ヨーロッパ内における難民の移動も容易にするという問題点をもたらすことになりました。


 ドイツへの大量の移民流入は、EU最大の経済大国であることも理由の一つですが、(西)ドイツ政府がトルコからの「ガストアルバイター」と呼ばれる低賃金労働者を利用してきたことも大きな理由です(ただし、現実にはトルコからくるクルド人も多かったはずです)。すでにガストアルバイターを大量に受けている以上、ヨーロッパ外からの難民を拒否することは困難です。


 オーストリアの難民の多さは、この国がかつてのハプスブルク帝国の中核に位置し、オスマン帝国に隣接していたことを思えば、決して不思議ではありません。


 また、スウェーデンへの難民の多さは、EUの市場統合がどれほど進んでいるのかを証明します。


 EU加盟国になった以上、スウェーデンに難民が流入するのも当然のことです。単一市場は人々の流動性を著しく高めた。そのため、以前は難民とはあまり関係がなかったスウェーデンにまで、ヨーロッパ外からの移民が住むようになったのです。


 このように見てくれば、ヨーロッパの難民問題は、その国の歴史・文化の根底に深く関わる問題だということがわかりでしょう。現在のヨーロッパ諸国は、帝国主義時代といまだ密接につながっているのです。ヨーロッパの難民問題は、帝国主義時代の負の遺産なのです。



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