日米開戦80年…いくつもの誤解や読み違い、重ねた揚げ句の「真珠湾」だった
昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発してから80年になる。米国と戦っても勝てないとわかっていながら、なぜ日本は開戦に踏み切ってしまったのか。開戦前の半年間には昭和天皇(1901~89)臨席の下で政府や陸海軍の首脳が重要な国策を決める「御前会議」が4回も開かれ、国策要綱や対処方針を定めている。だが、誰もが米国との戦争は無謀で避けるべきと考えていたにもかかわらず戦争を止めることはできず、むしろ会議を重ねるごとに作戦は大規模になっていった。その背景にはいくつもの誤解や読み違いがあった。
開戦の火ぶたはマレー進攻だった
対米英宣戦布告を報じる読売新聞(12月8日発行夕刊)開戦を伝える読売新聞12月9日付(8日発行)の夕刊は、日本軍が「西太平洋全面」で「電撃戦」を展開したと伝え、見出しにはハワイ真珠湾のほかマレー半島、香港などの見出しが踊っている。太平洋戦争は真珠湾攻撃から始まったという印象が強いが、厳密にはその前に日本陸軍がマレー半島に上陸し、英国軍との戦争を始めている。12月4日、2万6000人の進攻軍を満載して海南島を出発した輸送船団は、タイに向かうと見せかけてタイランド湾中央で分散して進攻作戦が始まるのだが、英領マレーのコタバル攻略部隊が英軍の砲撃を冒して上陸を敢行したのは8日午前2時15分。真珠湾攻撃の約1時間以上前だった。
マレー進攻作戦の狙いは英国のアジア最大の拠点、シンガポールを落とすことだった。上陸地のひとつにコタバルを加えたのは、前々回にこのコラム( こちら )で紹介したノモンハン事件の作戦参謀、辻政信(1902~?)だった。司令官の山下 奉文(ともゆき) 中将(1885~1946)も敵前上陸の奇襲を支持し、この判断が勝因となって日本軍は開戦からわずか70日でシンガポールを占領する。もっとも、辻の独断専行は相変わらずだったようで、山下は日記で辻を「我意強く、小才に長じ、所謂こすき(ずるい)男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり」と批判している。山下と辻はそりが合わず、たびたび作戦指揮は混乱した。開戦直後の高い士気がなければ電撃戦は成功していたかどうかわからないとの見方もある。
降伏交渉を行う山下(着席左)と英軍のアーサー・パーシバル中将(同右から2人目)(『写真週報210号』国立公文書館蔵)真珠湾攻撃は資源獲得戦争の側面支援だった
日本軍がシンガポール攻略を急いだ最大の理由は、ボルネオ島など蘭領東インド(蘭印)の油田確保だった。米国は日本の南部仏印進駐に対する制裁措置として、昭和16年8月1日から対日石油輸出を全面停止していた。日本は石油の大半を米国に依存し、備蓄は1年余りで底をつく。日本にとって蘭印進出は時間との戦いでもあった。ちなみに真珠湾攻撃では米国への宣戦布告が遅れたという話が有名だが、マレー作戦は最初から宣戦布告の予定はなかった。
当時、オランダ本国はドイツに占領されており、シンガポールの英国軍さえ追い出せば、蘭印進出への道が開ける。だが、英国を攻撃すれば同盟国の米国も敵に回し、シンガポールを落としても米軍によって蘭印への進出が阻まれる恐れがある。蘭印に出るなら同時に米太平洋艦隊も 叩(たた) いておく必要がある。作家の半藤一利(1930~2021)は『なぜ必敗の戦争を始めたのか』のなかで、「主作戦はあくまでも南方諸島攻略、真珠湾はその支援のための従の作戦」と解説している。
ボルネオ島占領後に破壊された油田を復旧させた日本軍(『大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録1』国立国会図書館蔵)真珠湾攻撃で米太平洋艦隊に打撃を与えたことで、シンガポール攻略後の南方作戦は作戦計画を上回る早さで進み、日本は南方の資源地帯を完全に支配下に置く。だが、代償として日本は中国に加えて英、米、蘭、豪を敵に回しつつ、広大な占領地域に戦力を配置し、補給線を維持するという国力に見合わぬ負担を背負うことになった。
山本五十六の手紙に込められた真意
山本五十六(国立国会図書館蔵)
連合艦隊司令長官の山本 五十六(いそろく) (1884~1943)が真珠湾攻撃の着想を得たのは昭和15年(1940年)3月、空母航空隊の雷撃訓練を見た時とされる。昭和16年1月には海軍大臣の及川古志郎(1883~1958)に送った手紙の中で「開戦 劈頭(へきとう) 、敵主力艦隊を猛撃撃破する」手段として真珠湾攻撃を提案している。当時は対米戦争回避のための日米交渉が始まったばかりで、石油の禁輸措置も行われていない。山本は、なぜこの時期に真珠湾攻撃を唱えたのか。
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長の戸高一成さんは『日米開戦の真因と誤算』のなかで「 穿(うが) った見方」と断りつつ、山本は対米戦を避けるために真珠湾攻撃を立案した、との見方を示している。半藤も前述書のなかで、本気で真珠湾攻撃をやるつもりなら、人事の責任者である海相ではなく、作戦担当の軍令部に手紙を出すはずだ、と指摘したうえで、海相への手紙は海軍内の対米強硬派を一掃する人事を断行しなければ、こんな奇想天外な作戦を実行に移すしかない、と山本が半ば海相に脅しをかけたのだ、と推理する。
山本が手紙に込めた目的は異なるが、戸高説、半藤説は対米戦争を避けるため、という点では同じだ。戦ったら負けるとわかっていても、「戦え」と命じられたら断れず、軍令部の人事決定権もない司令長官が対米開戦を止めるには、奇想天外な対米攻撃案を出すしかなかったのではないか。山本の案は8月には軍令部に提案されたが、軍令部は山本の予想通り「あまりにも無謀」という理由ですぐには採用しなかった。(계속)
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