日本, 韓.日 關係

朝貢体系の崩壊と変質 

이강기 2015. 9. 11. 11:48

          朝貢体系の崩壊と変質 

 

         吉野誠

 

 

(1)   朝貢関係と条約関係

 

 近代的な外交関係を樹立して朝鮮への進出をめざす日本と、伝統的な宗属関係の強化をはかった清国の対抗として、日清戦争にいたる過程をあとづけたのが田保橋潔『近代日鮮関係の研究』(1940)であった。1960年代の遠山茂樹・芝原拓自の論争では、清国洋務派政権の朝鮮政策が伝統的な宗主権の維持・強化にすぎなかったのか、明治政府の国権主義的な政策と同質のものだったかのかが焦点のひとつとされた。この過程を坂野正高『近代中国政治外交史』(1973)は、中国と周辺の朝貢国からなる前近代的な国際秩序が近代的な国際関係の拡大によって蚕食されていくプロセスとして描く。永井和「東アジアにおける国際関係の変容と日本の近代」(1986)は、近代世界システムによって中華帝国体制が解体され帝国主義体制が形成される過程の全体的な俯瞰を試みている。

 近代世界についての評価は様々であるが、これらの研究において伝統的な東アジアの国際秩序は、もっぱら西欧に起源する近代的な国際システムによって崩壊し代替されるものとして取り扱われる傾向にあった。それに対して浜下武志「朝貢貿易システムと近代東アジア」(1986)は、アジアの内在的な論理に即して近代の歴史過程を把握する必要を強調する。東アジアの域内秩序である朝貢関係は一方的に解体されるのでなく、西欧に起源する条約関係と並存し、むしろそれを下位概念として自らの内に取り込みつつ自己変容するものととらえなければならない。茂木敏夫「李鴻章の属国支配観」(1987)も、視点を中国の伝統的な宗属関係の側に据えた分析を主張し、「属国自主」の原則を維持しながら近代世界の「力」の論理に対応しようとした李鴻章の外交政策をあとづけた。朝鮮史においては、趙景達「朝鮮における大国主義と小国主義の超克」(1985)が、伝統的な事大関係にも依拠しながら自存の道をさぐった穏健開化派の企図のうちに、覇道的な近代の国際秩序や日本的近代に対するの批判の契機を見いだし、研究上の画期をもたらした。「属国」と「自主」をめぐり、原田環(『朝鮮の開国と近代化』)が先駆的にとりあげた兪吉璿の「両截体制」論などに関する検討がすすんだことは、指摘するまでもなかろう。

 いずれにしても、近代世界システムの尖兵として伝統的な東アジア世界の秩序に解体・変容をせまったのが、明治維新以後の日本であった。日本は万国公法の原則をふりかざして朝貢関係に介入しようとしたのだが、そうした志向が形成されるプロセスはどのように説明すべきなのか。朝鮮への侵略をめぐって清国との対決が明確になるのはどの時点なのだろうか。1882年の壬午軍乱の前後にひとつの画期があるのは大方の認めるところだが、維新による天皇制国家成立時からの侵略性を強調する見解もある。一方、高橋秀直『日清戦争への道』(1995)など近年の研究は、天津条約締結後の時期にも存在した「穏健」路線に注目している。この時期に外交政策を主導した伊藤博文らにみられる対清強調的な傾向、清国の宗主権を容認するかのような発言をどう考えたらいいのだろうか。

 この報告では、明治初期の征韓論の問題と、そののち日清戦争にいたる時期に宗属関係がどのように認識されていたかという問題について、若干の素材を提出してみたい。

 

                    

(2)   征韓論

 

[朝廷直交] 近代日本と朝鮮との関係は、明治初年以来の書契問題から始まる。王政復古を通告する対馬藩の書契の受け取りが、朝鮮側に拒否されたのだが、それに先立って維新政府に出された対馬藩主の上書は、幕府による外交が廃止されて「朝廷直交」となるからには「名分条理」を正さなければならないと強調していた。その一環が「皇」「勅」の文字を含む書契であった。日本の本来の姿は天皇中心の国家体制であり、その天皇に朝鮮は服属すべき存在であって、江戸時代のような交隣外交などはありうべからざるものである。維新によって天皇が直接に朝鮮と交際するようになった以上は、本来の正しいあり方にもどし、天皇への朝鮮の臣属を明確にすべきだというわけである。外務官吏宮本小一の報告「朝鮮論」(1869)は、政府内部にある見解を次のように紹介している。

「王政復古し大号令天皇陛下より出る上は、朝鮮は古昔の如く属国となし、藩臣の礼

 を執らせねばならず。宜しく速に皇使を遣して其不庭(逞)を責め、苞茅の貢を入  

    れさしむべし」

 [蕃国観] 天皇という称号が創出された時期に関しては諸説あるが、すくなくとも制度として確立をみたのが律令体制の成立する7世紀後半であることはまちがいない。天命を受けた中華皇帝が世界の中心に君臨し、周辺諸国の首長はこれに朝貢して爵位を授かる。そうした朝貢・冊封体制の展開のなかで、中国の東方にいま一人の皇帝たろうとする称号として設定されたのが天皇号であり、中華帝国のミニチュア版を作ろうとする志向を体現したものということができる。天皇すなわち皇帝は、朝貢国を持っていなければならず、それをもとめるとすれば朝鮮半島の国家にもとめるほかにない。『日本書紀』(720)が朝鮮諸国を日本の服属国だったように描くのはそのためであり、律令の規定では、唐を「隣国」すなわち対等な国家とする一方、新羅が「蕃国」とされている。そのような虚構のうえに成立したのが「天皇」称号だが、執拗に上表文を要求する日本の姿勢によってトラブルが絶えず、新羅との国交はとだえた。

 [交隣と蔑視] 15世紀初めに足利義満は明皇帝から冊封を受けて東アジアの外交体制に参入し、朝鮮国王との交隣関係をスタートさせた。武家政権の主張である将軍が「日本国王」として、朝鮮国王と対等な外交を展開したわけである。豊臣秀吉による侵略戦争のあとに成立した江戸幕府も、室町時代の外交を復活させるかたちで交隣関係を継続した。ただし、将軍が「国王」をなのることに対しては、天皇との関係で批判が絶えず、現実には武家政権による交隣外交が推進されたにもかかわらず、古代の蕃国観に淵源する朝鮮蔑視の意識も伏在し続けた。

 江戸幕府は、自らは清国と正式の国交を結ばないまま、清国と冊封関係にある琉球・朝鮮との国交を維持することによって、東アジアの国際秩序に加わった。1609年の出兵により軍事的優位に立つ薩摩藩を介して琉球との関係を構築する一方、朝鮮との外交は将軍の臣下であると同時に朝鮮側からも歴史的に属領とみられている対馬藩を媒介に維持された。日朝外交は基本的に対等な関係であったが、将軍の権威付けのため、日本を頂点において諸外国を下位に位置づけるような演出がおこなわれたことも事実である。日本を上位におく「日本型華夷秩序」の構想がありうるとすれば、理念的には天皇を頂点にすえる以外にはなかったが、武家政権のもとではあくまでも副次的な要素にとどまった。

 [吉田松陰] しかし、近世において高まってくる日本讃美論のほとんどは、日本の独自性の根拠を天皇の存在にもとめるものであり、したがって朝鮮蔑視の意識を随伴した。欧米列強による外圧が意識されるようになると、日本中心思想が高揚し、「天皇の浮上」といった現象が強まってくる。1853年のペリー来航は危機を現実のものとしたが、この危機に臨んでとるべき戦略を、吉田松陰(1830~59)は、大略次のように示す。

      急いで武備を整え、蝦夷を開墾して諸侯を封建し、琉球を諭して内地の諸大名と同列に位置づけ、朝鮮を責めて「質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ」たうえ、北は満州から南は台湾・ルソンを手に入れなければならない。・・・

    そうした事業を遂行するためにも、「日本の日本たる所以」を明確にする必要がある。日本の独自性を松陰は、中国との対比を通じてすすめる。易姓革命がおこなわれ王朝の交代が繰り返された中国とちがって、建国ののち皇統が絶えることなく継続するところに日本の優秀性があらわれており、天皇を中心とした体制こそが日本の本来のあり方だという。そのような「国体」が全うし天皇親政がおこなわれていた古代において、朝鮮半島の諸国は天皇に臣属し、任那日本府は機能していた。松陰によれば、朝鮮の臣属は日本の国体にとって不可欠の一環ということになる。

    国体が衰微した武家政権期にあっては、ひとり豊臣秀吉が賞賛される。神功皇后の三韓征伐とともに、秀吉の朝鮮征伐こそ「皇道」を明らかにするもの、「神州の光輝」というべきものだと称揚された。「神功・秀吉のときの如く海外を懾服せしむる」のが日本の「持ち前」であり、征韓こそ「神聖の道」に叶い、「立国の体」に合致するものだという。

    [征韓論争] このように征韓論とは、国体論によって理念化された朝鮮侵略論である。明治維新が王政復古として、天皇中心の国体の回復として成し遂げられた以上、征韓論が高まるのは必然的なことであった。明治維新における朝鮮問題の核心は、「朝廷直交」の実現にほかならなかったのである。

    書契をめぐる紛糾が解決をみないまま、1873年には明治政府内部で征韓論争がおこる。西郷隆盛の真意が平和的使節派遣論だったか、武力的征韓論だったか見解の分かれるところだが、西郷は「名分条理を正し候儀は、倒幕の根元、御御一新の基に候えば、只今に至り右等の筋を相正されず候わでは、全く物好きの倒幕に相当り申すべき」「云々と発言している。西郷にとって「名分条理」を貫徹し「不遜を相正す」ことが重要であり、それこそが「倒幕の根元」であり「御一新の基」であった。「名分条理」とは、王政復古によって国体を全うし、「朝廷直交」を実現する以上、本来のあり方として朝鮮を天皇の威令に服させるということにほかならないであろう。

 朝鮮への侵略を王政復古の思想で基礎づけたのが征韓論だったが、征韓論争をへて、それが直接に外交政策に影響をおよぼす時代は終了すると思われる。

 

 

(3)万国公法 

 

江華島事件ののち日朝修好条規が結ばれ、明治政府は万国公法を前面にかかげて清国と朝鮮の宗属関係の解体をめざした。そこにおいて宗主権がどのように認識されていたのか、台湾出兵にはじまる琉球問題や壬午軍乱・甲申政変・天津条約などほとんどの交渉にかかわった井上毅の発言を手がかりに検討してみたい。  

 [琉球問題] 1872年、琉球国王尚泰は琉球藩王に冊封され、天皇とのあいだに君臣関係が設定された。そうした背景のもと、台湾へ漂着した琉球漁民が現地住民に殺害された事件がクローズアップされ、報復として1874年の台湾出兵となる。北京での外交交渉で日本は、琉球の所属問題は一切とりあげないまま清国側から撤兵要求を出させ、それに応じる代わりに賠償金を払わせる。そのことを通じて、日本の出兵が自国民保護のための「義挙」であることを清国にみとめさせようとしたのである。

 そのうえで1875年に清国への朝貢を廃止させ、79年には琉球藩を廃して沖縄県を設置し、強引に日本領土に併合する。清国とのあいだで琉球の所属をめぐる交渉がおこなわれるが、井上は「冊封・朝貢は属国の実証に非ず」として琉球が清国の属国だという議論をしりぞけ、言語や人種の近似性や歴史的な経緯、とくに島津氏による征服とそれ以降の薩摩藩との関係を強調して日本の所有であると主張した。しかしながら、清国が琉球を「半独立国」「半主之国」「半独立ノ邦」と主張してきた場合には、「論理尤も人聴を動かすに足る者あり」と警戒の念を示す。とりわけ幕末期に、琉球はアメリカ・フランス・オランダと条約を結んでおり、しかも「明治五年琉球を内藩に列するの後、我政府より三国に何等の照会をなしたることなし」というのが事実である。「半独立ノ邦」について井上は、「欧州に一小国自ら独立すること能はず、数大国の保護を受け、其一大国之を併せんと欲して他の二三大国之を拒む者其例甚だ多し」と述べ、エジプトなどの例をあげている。万国公法が必ずしも清国と琉球の宗属関係を否定するものでないことを明確に自覚しながら、

それを議題にすることを避けつつ交渉をすすめているわけである。

 1880年になると、井上は宮古・八重山二島だけを清国に割譲しようという分島案を提起し、さらにこれとは別に懸案となっていた条約改正案を抱き合わせにして交渉しようとする。あくまでも琉球王国の存続を要求する清国に対し、宗属問題の正面らの論議を避けて焦点の移行をはかり、清国が受け入れれば二島のみ切り離して本島を手に入れることができ、「談判成らざるときは、我れは初めの位地に立て争ふ所の目的なる琉球を失ふことなし」という巧妙なやり方だった。結局、改約分島条約は調印に至らず、所属問題はあいまいにしたまま、日本による支配が進展することになる。

 [壬午軍乱] 1882年の壬午軍乱は、日本にとって、まずは公使館が襲撃されたことに対する責任追及の問題だったが、清国が宗主国として軍隊を送って反乱を鎮圧するとともに、日朝間の調停を申し出てきたことで、宗属関係をめぐる問題とならざるをえなかった。清国の仲介を受け入れれば宗主権を容認することになる。

 ここでも井上は、朝鮮が清国の属国かどうかの議論は回避し、仲介をことわって直接に朝鮮と交渉する方針をうちだす。井上の質問に対する法律顧問ボアソナードの意見も、「日本は朝鮮を独立国と認め、現今の条約も支那の手を経由せず、全く朝鮮と相対にて締結し、・・・朝鮮の京城に公使館を置き、公使を駐箚せしめて之と交際し、而して始めより嘗て支那の関渉に預からず」として調停をことわるべきだとする。そして、和親条約を締結した以上は独立国とみなしうるとしたうえ、もしも「半属国」が第三国と意にそわない条約を結んだとしても、「管轄国若くは保護国は該条約締結の時に於て、其権理に付き抗論を為したるにあらざれば、之れに干渉することを得ず」といい、清国の干渉をしりぞけることができるのだと述べている。

 ただし、この議論は清国と朝鮮の特別な関係の存在を否定したものではない。井上が属国論を議題にすることを避けたのも、万国公法が必ずしも日本の主張に適合するものでなく、列国のなかで「万一清国に左袒するものある時は、以外之面倒を引起す」ことを恐れたからであった。井上は、17世紀前半の清による朝鮮征服の事例をあげ、

「右征服之事蹟ある上は、朝鮮之事公法依り局外より平心に論じ候へば、朝鮮は公法之

  所謂半独立之邦にて、・・・貢属国にして外国交際にのみ、自主之権を有するものとな

  す事至当と存候」

という。万国公法に照らして、宗主権を否認することはできないことを自認していたのであり、「今度之葛藤に付ては、専ら一直線に我が国之朝鮮における直裁之関係に支那之干渉を容れざる事をのみ主張」すべきであり、「朝鮮之半独立たるの理に依り、其交際上には自主之権ありて朝鮮自ら其責に任ずべく、我国は単純に条約第一条に拠り、朝鮮と直接に談判すべきの論理を主張」するのが「最も精確之議」だとしたのである。ボアソナードも、

「一朝其自国の小弱にして、隣邦に抗敵するの難きを悟りたるにおいては、其最も信任  する所の一国、若くは其最も恐怖する所の一国の保護を仰ぐこと一に其意の随ふ所にして、決して他邦の嘴を容るべき所に非ざるなり」

といい、こうした関係に他国が干渉することは許されないのだとしている。

 このように、「朝鮮は各国と平等之約を為し、内治外交其自主に任じながら全く支那之属邦たり」という現実を前提としたうえで、構想されたのが「永世中立」論である。朝鮮が「自主」に基づいて列国と条約を結んでいる点に依拠して、「日清米英独之五国互いに相会同して朝鮮の事を議し、朝鮮を以て一の中立国」にしようという提案である。そうすることによって、「清国は他の四国と共に保護国たるを以て、四国の叶同を得ずして独り朝鮮の内政に干渉することなかるべし」というように、朝鮮は「支那の羈軛を脱」することができるのだとする。万国公法にもとづいて清国の宗主権に対抗する最も現実的な方策が中立化案だったということになろう。ボアソナードは、スウェーデンやベルギーなどの例を示して理論的な根拠を与えている。

 [甲申政変・天津条約] 1884年の甲申政変は、日本からすれば、清国の宗主権を一挙に否定してくれるはずのものであった。しかしながら、清国軍隊の出動でクーデターは失敗して親日的な勢力は基盤を失ない、しかも日本軍は清国軍と衝突して押さえ込まれてしまった。清国の宗主国としての力量はいっそう強まり、「将来支那の勢力は全く朝鮮を支配し、朝人も亦日本に対する交際政略に付ては全く支那に倚頼し、我国の朝鮮に於ける八年以来の政略は地に堕ちて不可救に至る」ことが予想された。このような状況になった以上は、すくなくとも撤兵を要求し、それが認められない場合には、「朝鮮人の為めに目を醒さしむる程の事」が必要だとして開戦を覚悟すべきだと主張する。

 ただ、この場合にも井上は、朝鮮が「支那の属国にあらず」との主張は交渉において「危険を免れず」という。「支那の朝鮮に於けるは三百年前征服の国に係り、朝鮮国王の降参状は揚げて清韓の歴史にあり。現に臣と称し朝貢し、朝鮮の官吏は自ら陪臣と称し、而して支那を称して天朝となし、其正朔を奉じ、小の大に事ふるを以て自居」しているが、それは「頗る欧州の保護国の位置に類し」ていると指摘しているのである。

 天津条約により撤兵には成功するものの、清国の内政干渉はいっそう強まる。この時期に日本から出された「朝鮮弁法八カ条」の提案は、朝鮮問題については日清で協議したうえ李鴻章から朝鮮政府にはたらきかけて実施しようというものであった。そのかぎりでは、清国の宗主権を前提とした妥協的な提案のようにみえる。だが、甲申政変のあと親日勢力が一掃され、介入の足がかりがなくなってしまった状況のなかでの提案である。清国に対抗して、何とか発言の余地を残そうという積極的な要求とみなければならない。

 また、1890年の山県有朋の「外交政略論」は、主権線の外に利益線を設定し、朝鮮までをも軍事的な勢力圏にくみこもうとする主張だが、そのための外交戦略として掲げられるのは、「聯合保護の策の出て、以て朝鮮をして公法上、恒久中立の位置を有たしむべき」だという中立化の構想だった。この山県意見書を起草したのは井上毅であり、壬午軍乱後の中立化案の延長とみてよい。「自ら聯約の盟主と為るは、情勢の許さざる所」と自覚せざるをえないような力量で、清国の宗主権を押さえ込むには共同の場を設定し、そこで発言権を得るのがもっとも現実的だったということだろう。けっして消極的な穏健策なのではなく、公法に依拠しながらの外交政策としては積極的な宗主権への対抗策だったのである。そのうえでいえば、利益線の主張の眼目は軍備充実のための予算の必要を説くところにあったのであり、宗属問題の解決は、琉球の場合をふくめ、究極的には軍事力での決着をはからなければならないものだったのである。

 以上のところから窺えるのは、清国の宗主権に対する一貫した挑戦の姿勢である。だが、それは、万国公法の理念に忠実なところから生み出されたわけではなかろう。公法が宗属関係を排除するわけでないことを充分に認識しながら、公法を駆使して宗主権に対抗しようとしたのである。朝鮮や琉球の支配への野心は、すでに吉田松陰の構想のなかに明確に示されていた。侵略への意思の形成過程をさぐるためには、征韓論の時期についての理解が不可欠なように思われる。

 

 

 

参考文献

梧陰文庫研究会編『明治国家形成と井上毅』(木鐸社、1992

梧陰文庫研究会編『井上毅とその周辺』(木鐸社、2000

多田嘉夫「明治前期朝鮮問題と井上毅」(『国学院法研論叢』18~21,1991~94

長谷川直子「壬午軍乱後の日本の朝鮮中立化構想」(『朝鮮史研究会論文集』32,1994)

井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝』史料編1~6(国学院大学図書館、1966~77

国学院大学日本文化研究所編『近代日本法制資料集』8(東京大学出版会、1986