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横浜開港・時代に翻弄された幕府公認・ラシャメンとは何か

이강기 2022. 6. 30. 22:07

横浜開港・時代に翻弄された幕府公認・ラシャメンとは何か

開国・日本を外交、外貨獲得手段として支えた娼婦たちの運命
 
JB Press, 2022.6.30(木)
 
 
 

連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

港崎遊郭・四大大楼の一つ「神風楼」。看板に記された「NECTARINE」とはバラ科の果実を意味する。この異人揚屋は西洋人からはNo9の愛称で親しまれ、横浜港開港から関東大震災までの40年の間、繁栄を見せた大店(おおだな)である

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娼婦は春を鬻ぐなりわいの女性だが、商取引とは双方的なものである。
 

 かつて多くの女性が主張したように、「女性たちは純潔である」としたならば、この世に不潔な男性など、一人もいないだろう。

 

 もし、淫を買う男性が一人もいなければ、淫を売る娼婦も存在しないのだから。

 

 

羅紗緬とは何か

 羅紗緬(らしゃめん)は、幕末から明治にかけて、日本在住の西洋人を相手に取っていた洋妾(ようしょう)、もしくは日本での外国人の現地妻となった日本人女性のことを指す。

 

 慶應4年(1868)の「中外新聞」には「外国人の妾を俗にラシャメンと称す」とある。

 

 羅紗緬(羅紗綿とも書く)とは、もともと綿羊のことを指す。

 

 西洋の船乗りが食料としての目的と、性欲の解消のため、性交の敵娼(あいかた)として羊を船に載せていたことが羅紗緬の呼び方の由来とされる。

 

 それが転じて、外国人を相手にする娼婦や妾を当時の人は綿羊娘と揶揄した。

 

 洋妾は長崎にはすでに存在していた。

 

 喜田革守貞の『守貞漫稿(嘉永6年:1853)』によると「国人誤て洋夷は犬及び綿羊を犯すと思ひ、その犬羊と同じく処女の夷妾となるを卑しめ、雑夫仮名を付けて羅紗めんと云ひ初しが遂に通称の如くなる」とある。

 

 横浜開港以前に羅紗緬という呼び方が定着したようだ。

 

 仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛(明治4年)』に出てくる「ラシャメンという毛もの」によれば、外国人マドロス(船乗り)の云うところでは「我ら寒き国へ渡りし折り、抱いて寝るなれば、すなわち我が妻も同然なり、という動物である」

 

 十一谷義三郎の小説『唐人お吉(昭和3年)』では「これ人倫部に入るべきか、畜類部に入るべきか、決しがたき動物の名なり」

 

『横浜ばなし』(文久2年1862年)には、羅紗緬が外国人との性交の際、そのよがり声の凄まじさを「豚のなき声、羅斜緬の遠ぼえ」「我国と思はれぬ有様なり」とある。

 

 いずれも羅紗緬が動物扱いされているのは、西洋人を夷狄(いてき)と蔑む、当時の日本の風習に従うもので、異人と交わる女性を貶めた記述である。

 本来、公娼制度は為政者の保証により営まれるものでもある。

 

 だが、西洋人を蔑む社会的環境のもとで、春を鬻ぐなりわいの女性たちには、自己主張する手段すら持ち合わせては居らず、当時の風潮としては彼女らの人権など問題にさえならなかった。

 

 

寒村が開港場に選ばれた理由

 幕末期、安政5年(1858)日米修好通商条約を締結したハリスは東海道の宿場町である神奈川宿付近(現在の京急神奈川駅あたり)の開港を江戸幕府に要請していた。

 

 だが、東海道からやや離れた久良岐郡(くらきぐん)横浜村を開港場とすることを幕府が決定すると、諸外国の公使らは、辺鄙な寒村が開港場となることに声を上げた。

 

 しかし、幕府は耳を貸さなかった。

 

 なぜなら幕府は外国人と日本人の接触を極力制限したいと考え、往来の著しい東海道に異国の徒が跋扈すれば、事件や事故が起こりかねないという危惧があったからである。

 

 実際、その懸念は的中し横浜開港3年後、事件は起きた。

 

 文久2年8月21日(1862)に武蔵国橘樹郡生麦村(いまの横浜市鶴見区生麦付近)で薩摩藩・島津久光の行列に遭遇した騎馬の英国人たちを、供回りの藩士たちが殺傷。

 

 この事件の処理のもつれから文久3年(1863)に薩摩藩と英国との間で薩英戦争が勃発したのである。

 

 

港町の妖しげな繁華街

 異国に解放された新たな町は、美しい砂地の横にあったことから横浜と呼ばれていた。

 

 世界の港を見まわしてみると、その多くは近くに性欲を発散できる歓楽街がつきものである。

 当時の日本の多くの港町の近くには遊廓が在ったが、新しい港町・横浜村にも外国の公使たちから遊女町の開設の要請があった。

 

 港町というのは淫靡な土地柄といえる。

 

 それは「板子一枚下は地獄」という、荒くれ稼業の船乗りが遊ぶとなれば、まずは遊郭。

 

 それがなければ、売春をする床芸者や給仕と売女をかねた飯盛り女を相手にすることになる。

 

 だが、床芸者や飯盛り女は公然と売春が認可されたものではない。

 

 外国人が居住区に居留するとなると、幕府が危惧したのは娼婦が蔓延り、西洋人と面倒な事件を起すことであった。

 そこで幕府は開港場に公然と遊郭を認め、その一方で厳しく娼婦を取り締まろうとしたのである。

 

 外国人が必然的に日本女性を求める外国人用遊郭には、あらゆる問題が含まれていた。

 

 日本女性の妾の問題、遊女の取り締まりや、遊女との間に生まれた混血児、外国人が雇い入れた日本女性の海外渡航と、その懸念は多岐にわたった。

 

 幕府は港に近い太田屋新田(現在の関内あたり)に遊廓を建設することを計画。

 

 外国奉行は、民間の事業を認可する方法で、現在の横浜公園あたりに約1万5000坪を希望事業者に貸与することで遊廓建設の担い手を募った。

 

 遊廓建設は、北品川宿の旅籠「岩槻屋」佐吉、神奈川宿の旅籠屋善次郎など5人による共同事業で始まった。しかし、そこはまだ新しい開墾地で辺り一面が沼地状態だった。

 

 その沼地を固め、堅牢な建物用の土地にする難工事に事業者は次々と脱落、残ったのは「岩槻屋」佐吉だけとなった。

 

 

幕府は娼婦をいかに管理したのか

 安政6年(1859年)の開国、そして横浜開港と同時に幕府公認で開業した遊郭は、その構造は江戸の吉原遊郭、外国人の接待方法は長崎の丸山遊郭に倣い、港崎(みよざき)遊郭と命名された。

 

 外国人専用の遊女の抱え入れは、宿場女郎(飯盛女)以外の女をあてるのが幕府の方針だった。

「岩槻屋」佐吉らは人を諸国に周して、遊女となる女性を集めようと試みた。

 

 だが、当時、夷狄と蔑まれた外国人との肉体関係が前提となる娼婦に、自ら好んで身を任せるような女性はほとんどいなかった。

 

 娼婦たちを集められない佐吉たちは、やむを得ず奉行所の許可をとり、神奈川宿旅籠の飯盛女50人を駆り集め急場を凌いだ。

 

 そのため、港崎遊郭は開業当初、粗野な飯盛女で占められた。

 

 幕府は遊女たちに外国人専用の公娼(羅紗緬)の証書契約を結ばせて鑑札制にし、異人揚屋と称される女郎屋が羅紗緬を抱える形で管理した。

 

 外国人専用の遊郭は鎖国をしていた日本の、数少ない外貨獲得の手段として機能する。

 

 港崎遊郭は日本人用と外国人用に分けられたのは、異人には外国人相手専用の羅紗緬しか選ばせないという目的による。

 

 港崎町建設工事の最後に残った事業主「岩槻屋」佐吉は港崎町の名主となり岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう)という、町最大かつ最も豪華な「蜃気楼か竜宮城か」と賞される遊廓の主となった。

 岩亀楼主佐吉は、廓会所預かり人として、また、廓名主として、遊郭全体の鑑札を握り、遊女に関する取り締まり、その他一切の権限を受け持つことになった。

 

 つまり、港崎遊郭の羅紗緬は、すべて岩亀楼の鑑札を受けてから、外国人の遊女か妾となったのである。

 

 こうした鑑札制度は、幕府が娼婦を取り締まる一つの手段であったが、ほかにも理由があった。

 

 庶民の間には外国人に対する反感や蔑視する根強い風潮があり、また幕末の志士の間には攘夷論が高まっていた。

 

 このような国情のもとで、公娼はともかく素人の女性までが外国人の玩弄物になることは、ますます彼らの反撥を強め、過激な思想や行動を助長させる恐れがあった。

 

 それで幕府は公娼以外の者は、絶対に外国人に身を任せることを許さず、素人の女性が外国人に身を任せるときには、必ず岩亀楼で遊女の籍に入り、源氏名をつけたうえで、その身を置かせたのである。

 

 これが名付け遊女、あるいは仕切り遊女と呼ばれる鑑札制度であり、娼婦取り締まりの手法であった。

 

 港崎遊郭の開業当時の規模は、遊女屋15軒、遊女300人、ほかに局見世44軒、案内茶屋27軒だった。

 

 

 日本人相手の遊郭よりも賃金が高いことから羅紗緬は次第に増加し、文久2年(1862年)神奈川奉行所の調べによれば、羅紗緬鑑札の所持者は500人に膨れ上がった。

 

 遊女の中には商館行きと称して、一夜、または二夜、三夜と連続し、あるいは半年仕切り、一か月仕切りとして外国商館に雇われていく者が次第に多くなっていった。

 

 幕府は日本人女性が外国人と結婚するのを禁じていた。

 

 しかし、外国人の中には、一方で公娼ではなく素人の娘を妾として抱えたいという強い要望が、居留地の異人の間から沸き上がる。

 素人の女性が外国商館に召し抱えられることは、娼婦の取り締まりの観点から固く禁じられていた。

 

 しかし、妾となる素人の女性も、いったん岩亀屋で遊女の籍に入り、源氏名をつけたうえで外国人のもとに行った。

 

 彼女たちは外国人からの給与から遊女屋へ鑑札料を支払うことを条件に、異人の妾になることを幕府は許可したのである。

 

『横浜ばなし』(文久2年1862年)には、

 

「右は女郎衆沢山有れども、其内異人に出る羅紗緬女郎は別にあるなり、異人見立気に入り候へば屋敷へ連ゆき一夜洋銀三枚也、尤此内にて岩亀楼への割駕籠ちんまで持切なり。此外屋敷に居る妾にもあり、町にかこひ女もあり」

 

 と、外国人に気に入られた女郎や囲われ妾の報酬、そして岩亀楼へのカネの流れが綴られている。

 

 港崎遊郭は「岩亀楼」「神風楼」「五十鈴楼」「黄金楼」の四大楼を筆頭に「金石楼」「金浦楼」「富士見楼」など楼閣は18軒、下級な売春小屋のようなところは84軒。幕府が管理する鑑札遊女は最盛期・1400人に増加した。 

 

 だが、時とともに名付け遊女ではない、鑑札をもたない素人のもぐりの羅紗緬が現れた。

 

 そして素人の町娘の斡旋業者の出現により、外国人は職業女出身ではない妾を抱えられるようになるのだが、妾は結婚ではないとの理由から、奉行所はこうした法律の抜け穴を封じることができなかった。

 

 結果、幕府が娼婦を取り締まる手段の鑑札は、なし崩しに有名無実化した。遊郭開業6年目の慶応2年(1866)には異人館通いの羅紗緬は約2500人に達した。

 

 

異人と遊女の混血児は

 外国人が居留して遊女や素人の女性と接する機会が多くなれば、いきおい、その間に子供が生まれることが考えられる。

 江戸幕府が鎖国令を発布したのは横浜港開港の約200年前・寛永十二年(1635)三代将軍・徳川家光の時代、長崎以外の外国貿易および海外渡航は禁止となった。

 

 当時、すでに朱印船の渡航は廃止となっていて、海外渡航者の帰国も禁じていたが、さらに幕府はスペイン、ポルトガル両国人が日本で生んだ子女287人を、長崎から澳門(マカオ)に追放する国外退去命令を発令。

 

 以来、異人と遊女の混血児は、日本に居場所はなくなった。

 

 横浜・港崎遊郭に話を戻そう。文久2年(1862)外国奉行は各国領事に幕府の対策について書簡を送った。

 

 そこには外国人の居留中に雇った日本の遊女が出生の児子は、出生の日から男女にかかわらず、その国(外国人)の国に属し、日本国籍は与えず外国籍に属すると通達。

 

 これに対して各国領事はこぞって反対した。

 

 遊女が生んだ小児に養育金を支払うことは認めるが、それを自国人とみなすことは認め難いというのである。

 

 そして、庶子はその母の属する国籍に入ることは各国法律の一般に定めるところで、仮に日本婦人が正式に外国人と結婚する暁には、自国政府はこれを承認するであろう、と反駁(はんばく)したのである。

 

 幕府は外国人との間に羅紗緬が妊娠することを戒めていたが、そうした事象は、やがて多発することになる。

 

 だが、異人と遊女の混血児の国籍問題は難航した。

 

 とりあえずの措置として幕府は10歳までは日本人として市内に居住できるが、それ以上になると外国人として居留地に移住させた。

 

 異国の居住者は、そのすべてが滞在の任期を終えて本国に帰国する際には、現地妻を捨てて各々の国へと帰っていった。

 

日本の発展を支えた羅紗緬たち

 岩亀楼の一番の美貌の遊女・喜遊太夫は文久2年、ペリー艦隊の軍人に言い寄られ、店主から外国人の一夜妻を命じられたのを拒むと「露をだに 愛ふ倭の 女郎花 ふる亜米利加に 袖は濡らさじ」と辞世を残して自刃。

 

 のちに、その逸話は戯曲として『ふるあめりかに袖はぬらさじ』として上演された。

 

 また、羅紗緬の中には、自分よりはるかに広範かつ該博な知識をもつ、外国から来たパトロンを会話で楽しませる、きわめて知性に富んだ女性もいた。

 

 近代初期の日本外交において薩摩藩と縁が深く活躍したシャルル・フェルディナン・カミーユ・ヒスラン・デカントン・ド・モンブラン伯爵の世話をした「フランスお政」や、幕府の肝いりでフランス軍事顧問団団長のシャルル・シュルピス・ジュール・シャノワーヌ大尉の妾に選ばれた御用羅紗緬「将軍お倉」。

 

 フランスの技師で横須賀製鉄所所長・レオンス・ヴェルニの側妻(そばめ)「お浅」など、時代の波に翻弄されながらも、日本の発展を陰で支えた聡明な羅紗緬も多く存在したのである。

 

 

遊郭全焼、そして消滅

 慶応2年(1866年)「豚屋火事」で横浜開港場は大火に見舞われた。

 

 火元は日本人町の豚肉屋鉄五郎宅。炎は勢いを増し、日本人町の3分の1、外国人居留地の4分の1を焼き払い、港崎遊郭も全焼。

 

 400人以上もの遊女たちが港崎遊郭から逃げ遅れ焼死した。

 

 その後、遊郭は何度か大火で移転し、吉原町遊廓、高島町遊廓、永真遊廓など、名称が変わった。

 明治5年(1872年)、遊郭が吉原町遊廓に移行すると、娼婦を取り締まるための鑑札は役目を終えて、在住地官長への届け出制となった。

 

 未解決のまま棚上げされていた混血児の国籍問題は、その目途がつかないうちに江戸幕府は終焉。

 

 そして明治政府は明治5年(1872)戸籍法の布告により、混血児の出生後の国籍は、父母いずれかの国籍に属さねばならなくなったため、出生を届けさせることを規定とした。

 

 明治6年(1873)政府は日本人と外国人結婚許可の法令を発布。

 

 鎖国時代から安政の開国を経て、この法令が出るまでの約200年の間、わが国の女性は外国人男性と対等な地位など望めるはずもなく、常に傅(かしず)き続けなければならなかった。

 

 港崎遊廓は豚屋火事により港崎町から撤退を余儀なくされ、その後の復興計画もなく、港崎町そのものが姿を消した。

 

 代りにその跡地に大きな洋式公園を造り、そこから港へ続く幅の広い大通りを造る都市計画が浮上。

 

 公園の設計は、「日本の灯台の父」と讃えられる英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンをはじめとする外国人が中心になって行われた。

 

 横浜公園が完成した当時、居留地外国人である「彼」と日本人である「我」の双方が使える公園という意味から「彼我公園」と呼ばれた。

 

 しかし、実際には野球場とクリケット場を兼ねた居留している異人のための運動場というのが実情であった。

 

 その公園から港に向かって日本初の西洋式街路・日本大通りが開通すると、神奈川県庁などを有する横浜の中心部となった。

 

 横浜が開港し男尊女卑の世の中で、羅紗緬たちの運命は、翻弄され、愚弄されながら、時代の波とともに消えていった。

 

 日本は鎖国から開国となった激動の時代、外交や外貨獲得の手段として、日本を支えた多くの名もなき女性たちの記憶を留めるものに、遊郭の遊女が信仰した「岩亀稲荷」が横浜市西区の岩亀横丁の中ほどに現存している。

 

 また、港崎遊郭随一の繁栄を誇った岩亀楼の「石灯籠」は横浜公園内の日本庭園に、いまも、ひっそりと佇んでいる。 

 それらの遺構は時代に流されながら生きた、ラシャメンたちの徴憑(ちょうひょう)として、その僅かな面影をいまも漂わせている。